現代の物理学は
素粒子の世界までその科学のメスを入れているが
しかしまだ「生命現象」という私達自身を含めた、
ごく日常的な現象の本質について
いまだ明確な答えを得ていない

ミミズやバクテリアの様な人間より遙かに単純な構造の生命体に関してですら
その生命とはどこから来るのか?未だ科学はキチンとした定義や説明は為してはいない

  ・・・・鉱物と生物との境界線はどこなのか?
       ・・・・・生体と死体との境界線は?

「生物学」的には一応の線引きはあるだろうが、
それにしても人間が人為的に定義した上でのことだとおもう

「何か形而下に・・・」あらわれたものであるならば、
なにがしかのラベリング、カテゴライズ、定義が可能で
形而上の世界が、いわゆる「アンマニフェスト」とほぼ同じ意味ではないだろうか?

〝無=0〟とは〝no thing〟〝無限=00〟とは〝any thing〟
 そして〝無限光=000〟とは〝every thing〟と表現出来るかも知れない

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 これらの「アンマニフェスト」には「有限性」や「限定」がまるでない、とりとめが無い世界なので
                この世界では「自他の境界線」もまた、曖昧だっただろう

    ゼロは、幾つ集まってもゼロなのだ・・・

    ・・・つまり「数字の概念さえ無い~すべてが唯一無二で数えられない」ということだ

  わたし(たち?)生命とはこの「アンマニフェスト=No Where」からやってきたのだとしたら、
     解剖室や各種の科学測定研究所で、「生命が純粋抽出できない」のは当然だろう

 いままで、科学者達は
       「生命とは物質のまぐれの中で局所的に発生した〝現象〟」
       という前提でずっと「生命体」を切り刻んで、
       その中の「生命現象の原因物質」を捜してきた

  いま、科学者達は
       生命とはこの物質世界を〝発生させた〟原因なのではないか?
                               と疑いはじめている

「わたし(たち?)」は自らを知ろうと思ったなら、
       何か「限定」「分離」が必要だった
         「個別」になることが必要だった

そこから「生命の樹」の頂上「ケテル=究極の一点」を「くぐってきた」のではないか?と思う

「上の如く下もあり」エメラルド・タブレットの言うとおり
形而上の投影として形而下に「生命の樹」が現れたのだとしたら、
「ケテル」とは、この「上と下の」世界を結ぶピンホールなのかもしれない
「無限の光=000」は、このピンホールを通って生命の樹の〝至高の三角形〟

       「ケテル(いまここ/有ると無いの同時存在) =1」
        「コクマー(なにもない/囚われない自由) =2」
         「ビナー(すべてがある/〝美しさ〟)  =3」 を投影する

この肉体に宿る三次元世界からみれば、
   「形而上(見えない)世界」  が 「内的な世界」で
   「形而下(見える)世界」   が 「外的な世界」だから
          「形而下世界」の方が大きく、広がって見える

 しかし実際には何ものにもまだ限定を受けていない「無限に広がる世界」の方が
       「限定され、個別化された世界」よりも、本来は遙かに広大なのだ・・・

   もっとも、「広大」という形容自体が「三次元的」な例え、比喩なのだけれど・・・

    つまり「外と内」という「空間的比較」は見方によってひっくり返ってしまうわけだ

     トーラス図を見れば判る・・・
     「中心」の無に等しい体積ゼロの小さな一点が
     「世界の果て」の外壁にまで広がり、またその逆の行程もある
torsionanimated
「探し求めていたものは、自分自身の内にあった・・・・」

チルチルミチルの青い鳥のテーマは、この「トーラス図」で単純明快に表現されている

   「自分という中心」と「世界という周辺」とは相補関係にあり、
      本来は「境目は無い」=シームレス、ボーダレス、だ

   
あなたに打ち明け話を・・・、それは、あなたは創造主なのだという事です。
                              
津留晃一


 しかしでは、
  分離している〝かのように見える〟三次元世界が、なぜ生まれたのか?

  ・・・いや、本当にこの世界は「ある」のか?・・・・  それさえ定かでは無いが、
    私たちの五感で確かめられる以上、少なくとも「データー」としては存在している

わたしたちはこの世界に「選択」をしに来た・・・
「選択」とは「あれか?これか?それか?」ということだ

「選択」をするということは、その前提として「迷い」があることを意味している
つまりわたしたちは「迷う」為にここに来ている

「あれか?これか?それか?・・・・」  選択によって当然結果が違ってくる、

そしてその結果の〝価値〟や〝意味合い〟に〝比較可能な差が生じる〟と思っている

          ・・・しかしそんなものは本当にあるのだろうか?

          少なくともわたしは〝比較可能な差〟などない・・・っと思っている

もちろん結果そのものは選択次第で大きく変わるだろう
ある日の私の些末な、何気ない選択が、私に死を招くかも知れない
ある日のあなたの決心が「全人類を救う」かも「破滅させる」かもしれない・・・

 ・・・でも、それぞれの枝分かれした「もしも」の運命が、本当に「比較可能」だろうか?

     そしてその結果の〝価値〟や〝意味合い〟が、本当に「比較可能」だろうか?

きっと誰もがこう答えるはずだ

ああもちろん!、その通り!
運命は変えられる、そしてその価値は計り知れない

だから私たちは真剣に人生を生きているのだ
「きっと明日は良くなる」っと、信じて! 

こんな答えだろうと思う・・・なぜなら

      「選択によって、努力によって、人生も世界も何も変わらない」
       のだとしたら、いったい人生に生きる意味や、生きる価値はあるだろうか?

もしそうでないなら、大きな絶望に襲われ、途方に暮れてしまう

  しかしそれでも言いたい  ・・・「全部同じだ!とは断言しない、しかし、比較は不能だ!」


もちろんこの回答は人によって違うだろう

  あるひとにとっては「選択肢Aの結果は成果が上がり、価値があり、意味がある」
       そして「選択肢Bの結果には何の価値も意味も無い(低い)」

  ・・・そうでなきゃ、選択すること自体に「価値や意味」などありはしないじゃないか?

  ・・・もし「何も変わらない」ならば「宿命論」なのではないか?

    わたしは、「いや、結果が全く同じだなんて言ってない」と答えよう

         「ただし、その価値や意味は、AとBとでは〝比較不能だ〟」と言いたい

     つまり別の言い方をするなら、
      「全ての選択は〝致命的に絶対だ〟」ということだ・・・
                ・・・比較不能、取り返しようが無いのだ

       「覆水盆に戻らず」という諺(ことわざ)に深く静かに入っていくならば
       私たちの人生は完全に静止するのだ、私たちは立ち止まらざるを得ない

マトリックス 弾丸2

あなたがたとえ私の胸ぐらを掴もうと、これは事実だと思う・・・

    わたしは別に「人生そのものに価値や意味がない」なんて言ってない

     「人生の選択やその為の努力 は本質的には〝比較不能だ〟」
      という理解に達することには〝無限の価値がある〟 と確信している

    ・・・なぜならそこから先、もう「選択する上での葛藤」から解放されるからだ

      そこから先、わたしたちは「自らの中心に留まり続ける・・・」  ・・・永遠に

          そういう意味において、この理解に達するという価値において・・・
                  生まれて来たことには確かに価値があるのだ

覚者が、「もう二度と生まれてこない」と言われている理由はそこにあるだろうと私は思う 

覚者はもう、「あれか?これか?それか?」で葛藤することは無いのだ 

表面的には選択には「善し悪し」「正しい、間違い」はある・・・
しかし、そこには本質的な差は無い・・・いや、比較不能だ
だったら、「生まれてくる」事に意味はあるだろうか?
「失敗も成功も」蜻蛉の様なものだとしたら・・・?

ただし、
「いや、そんな悟りなんかまっぴらだぜ!」
「人生には失敗も成功もある」「勝ち負けもある」「だから楽しいんじゃないか?」

・・・もちろんそういう人も多いだろう  ・・・だからこそ「悟り」とは「強制的な義務」ではないのだ

「悟っていない」ことはまったくもって「罪ではない」と思う
だれも好きこのんで「おシャカ(無用物)」になる必要もなければ、そんな義務も無い

誰もが好きなだけ「あれか?これか?それか?」
ゲームを無限に楽しむ事が出来ると思う・・・   「迷い」もまた「人生の楽しみ」なのだ

覚醒したくなったわたしのところにおいで・・・
でもキミは、楽しい夢を見ているかも知れないじゃないか?
わたしには無理矢理キミを揺り起こす権利は無いんだよ?  OSHO 

もし、
覚醒を求めるとしたらあなたの「あれか?これか?それか?」のゲームが、
                   きっともう終わりかけているのだ

   もうその時が来ているならば、「あれも、これも、それも、・・・」
      ・・・きっとすべての選択が、何んだか虚しく、虚ろに感じるのだろう

          そこにあなたの本性、「無」の本性が、もう現れ始めている、
                ・・・人間(エゴ)である事への完全なる「絶望」

         「無」とは「あれでも、これでも、それでも、・・・無い」ということなのだ


       「為すべき事など何も無い」  ・・・そう語ることは容易い

 ・・・しかし、これを実感するためには私たちは無限とも言えるほどの「為すべき事」が必要だ

   だから言葉は虚しいのだ・・・
  たったひとつのことを伝えるのに
  どれ程正確無比な定義を積み重ねても、〝それ〟は伝わらない

    なぜなら、無限の旅人である人と人との間にも、無限とも言える隔たりがあるからだ 

    そしてこの「 言葉は虚しい」と言うテーゼそれ自体が、実に難しい

  光透波では「言葉は神なりき」という・・・たしかにそうだろう
  なぜなら見方によれば、「神など居ない」が、見方によっては「すべては神」だからだ

    でも、そうであるならば「神」という言葉に一体どんな意味があるというのだろう?

     ことばとは「あれとこれとの違い」を明瞭化するために有るのではなかったのか?

  まさしく「言葉の虚しさ」「理論の積み重ねの虚しさ」そのものこそが
  「為すべき事は無い」という究極的理解に辿り着く上での最大の難関では無いだろうか? 

  だから禅マスターは、私たちを窓から放り出すのだ