We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

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Prem Sheel

2013年3月29日
千代能もそのようにして取り逃がしていた。
彼女は探求し、探求し、その探求に あまりにも巻き込まれすぎていた。
だが、 この探求もまた
「私は求道者だ」「私は凡人ではない」 「私は精神的だ」「私は宗教的だ」 「私は高潔だ」と言って、
あなたのエゴを膨らませる。
もしこの

 "おまえよりも私のほうが高潔だ"

 といった態度が生まれてきたら、    あなたは道に迷ってしまう。
それは 人生で犯しうる最大の罪であり、最大のあやまちだ。
他人よりも自分のほうが高潔であり、 自分は聖者だが他人は罪人であり、
「見ろ、  私の徳の高い人生を」
   といった思いが浮かんできたら、      有徳の人になってしまったら、
       あなたは道に迷ってしまう。
なぜなら、この
   自分は徳が高い  というエゴは              もっとも微妙なエゴであり、 落とすのがひじょうにむずかしいからだ。
鉄の鎖を捨てるほうがやさしい。
ダイヤモンドを散りばめた金の鎖を身にまとうことができたら、 それを捨てることはいっそうむずかしくなる。
なぜなら、それは鎖のようには見えず、 高価な装飾品のように見えるからだ。
汚い牢屋から脱け出すことはやさしいが、 もしそれが宮殿だったら、誰が脱け出したいと思うだろう?    脱け出すどころか、なかに入りたいと思うだろう。
罪人のほうが聖人よりも神に近い。 なぜなら、罪人はその境遇から脱け出したいと思っているが、 聖人は得意になって自分の幻想にひたっているからだ。
千代能は尼僧だった。 彼女は微妙な、
――自分は正しいものをよく知っている、高潔な人間だ――
という態度を楽しんでいたにちがいない。
彼女は偉大な出家者だった。   彼女はすばらしい美貌に恵まれていたと言う。
あまりに美しいので、 ある僧院を訪ねたときには断られてしまった。
こんなに美しい女性を僧院に入れると、 僧侶たちが動揺するかもしれないからだ。
その後、
彼女は顔を傷つけてやっと別の僧院に入ることができた。
彼女はすばらしい美人だったにちがいないが、   ちょっと考えてごらん……    彼女は自分の顔を傷つけて、それを醜くしておきながら、    深いところではこう考えていたにちがいない。
「私のみごとな 捨て方を見なさい。  私はとても美しい女性だった。  なのに  私はその顔を傷つけた……
 こんなことをした者は かつていなかったし、  これからもいないだろう。
 私の捨て方を見なさい。  肉体への 執着のなさを見なさい。
 私は美貌のことなど 少しも気にしていない。  私はどんな犠牲を払っても光明を得ようと決意している」
こうして彼女は見逃しつづけていた。
だが、ある満月の夜にそれは起こった。
  それは意表をついて、突然、起こった。   それはいつも不意に起こる。   それはつねに突発的に起こる。
だが私は、
それは他の誰にでも起こりえたと言っているのではない。
それは千代能に起こった。 彼女が為したことはどれもその原因ではないが、 彼女が為したことのすべてが彼女の内側にあるものを――
  何をやっても失敗に終わる、
    人が成功することはありえないという理解を生じさせた。
彼女はまったく望みのない状態に到ったにちがいない。 その絶望は為しうることをすべてやりつくしたときにはじめて感じられるものだ。
そして その絶望が訪れたときに、はじめて希望が生まれてくる――
その救いようのなさのなかで、エゴは大地に叩きつけられ粉々になる。
    人はもはや何ものも要求しない。
  自我はその絶頂に達してはじめて、その頂点で消えてゆく。
   中途半端な自我を落とすことはできない。
            それはできない相談だ。
           なぜなら、まだ先に望みがあるからだ。
「わからないぞ、  もう少し努力すれば、  もう少し修行すれば、  もう少し執着を捨てれば……」
「わかるものか。  まだすべての方角を調べたわけじゃない、まだ望みはある」                    とそれはつぶやく。
                  自我というのはしぶとい。 だが、 可能なあらゆる方角をすべて探しつくし、 究めつくしたのに、
  いつもしくじってばかりいれば、    失敗につぐ失敗を重ねていれば、
   いつまで探求し、探索することをつづけていられるだろう?
いつの日か探求や探索は落ちてしまう。
だから このパラドックスを覚えておきなさい――
光明は探求を落とした者たちにしか起こらない。
だが、探求を落とすことができるのは誰なのか?
それは充分に深く究めつくした者たちだけだ。
     これはパラドックスだ。
     これは理解しなければならない           大いなる秘密のひとつだ。
それを胸の奥に沈潜させなさい。  片方だけを選ぶ可能性は高い。
「探し求めよ、そうすれば汝は見いだすだろう」             と言う者たちがいる。
それは真理の半面にすぎない。 ただ求めるだけで見いだした者はひとりもいない。
また 「求めても 神が見つからないのなら、そもそもなぜ求めるのか?
 待てばよい。 ・・・・やがて神の恵みとして起こるだろう」                と言う者たちもいる。
         そのようなやり方でもけっして起こらない。
あなたがたは何世紀にもわたり、何生にもわたって待ちつづけてきたが、 いまだにそれは起こっていない―― そのような仕方では起こらないことはそれだけで充分に明らかだ。

Osho - The Secret Of Secrets


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