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Prem Sheel

遊び心とは、
人間の内側でもっとも抑圧されたもののひとつだ。 

あらゆる社会、文化、文明が遊び心に反対してきたのは、 
遊び好きの人間はけっして深刻にならないからだ。 

そして
人は深刻にならない限り、
支配されることはあり得えず、 
野心をもたせることはできず、 
彼に権力、金、地位を求めさせることはできない。

どんな人の内側でも、
けっして子どもは死なない。 
大人になればその子が死ぬというのではなく、 
その子どもはそのまま残っている。 

かつて
あなたであった存在は、
今でもことごとくあなたの中にいて、 
そして
最後に息を引き取るまで、あなたの中に残っている。

だが
社会はつねに、深刻でない人びとを恐れる。 
深刻でない人びとは、金や政治権力に対する野心をもつことはない。 

彼らはむしろ存在を楽しむ。 
だが
存在を楽しむことが地位をもたらすことはあり得ない。 
人を権力者にすることはあり得えず、 その人のエゴを満たすことはあり得えない。 

ところが、人間の世界全体はエゴという観念のまわりを回っている。 
遊び心は、エゴに反する。
試してみれば気がつくはずだ。

ちょっと
子どもと遊んでみれば、 
自分のエゴが消えていくのが分かるはずだ。 
自分が再び、子どもになっているのが分かるだろう。 
それはあなたについてだけでなく、誰についても言えることだ。

自分の中の子どもを抑圧してきたために、 
人は自分の子どもを抑圧することになる。

自分の子どもが
踊ったり、
歌ったり、
叫んだり、 
飛びはねたりするのを許す者はいない。 
ほんの些細な理由で、

・・・多分、なにかが壊れるかもしれないとか、 
・・・外に飛び出したら雨で服が濡れる
           ―― というような

そんな
小さなことのために大いなる霊的資質、遊び心が完全に破壊される。

従順な子どもは、両親にも、教師にも、誰にも褒められる。 
そして、いたずらっ子は非難される。 

その子の遊び心は、まったくなんの害もないかもしれないが、 
そこに反逆の危険があるという理由で、その子は非難される。 

もし子どもが、遊ぶための完全な自由をもって成長しつづけたら、 
その子は反逆者になるだろう。 

彼は簡単には隷属させられない。 
彼は、人を殺すため、あるいは自分が殺されるために、たやすく軍隊に入れられはしない。

反逆的な子どもは、反逆的な若者になる。 
そうなったら、彼に結婚を強制することはできない。 
彼に特定の職業を押しつけることはできない。 

そうなったら、
両親の満たされなかった欲望と憧れを成就するように、 
その子を強制するわけにはいかない。 

反逆的な若者は、自分自身の道を進む。 
彼は自らの内奥の願望に従って自分の生を生きることになる。

        ・・・・ほかの誰の理想に合わせるのでもなく。


反逆者は、基本的に自然だ。 
従順な子どもは、死んでいるも同然だ。 

それゆえ、両親はひじょうに幸せだ。 
その子がつねに支配下にあるからだ。

人間は不思議な病にかかっている。 

 人間は他人を支配したい。
  他人を支配することで、
   自分のエゴが満たされる、 
    自分が特別な者になれる。

そして、
  自分自身もまた他人に支配されたい。 
   支配されれば、もう自分に責任はないからだ。 
  
これらすべての理由のために、 
遊び心は、最初の最初から窒息させられ、押しつぶされる。

あなたはこうたずねている、 

「私の中に、
 もう長いこと無視してきた
 美しい小さな男の子がいます。 
 この小さな男の子は
 遊び好きで、
 好奇心に満ち、
 歓喜に満ちています。
 けれども、
 私はたいてい彼が自制心を失うのを許しません」 と。 
 
その恐怖はなんだろう?  
その恐怖は他人によって植えつけられたものだ。 

つねに制御の下にとどまるように、
つねに規律の下にとどまるように、 
つねに年上の者を尊敬するように、   と。 
 
つねに聖職者の、両親の、教師たちの言うことに従うように。
彼らがあなたにとってなにが正しいのかを知っている、  と。 
 
あなたの本質は、けっしてその本音を言うことを許されない。

ゆっくり、ゆっくりと、あなたは自分の中に死んだ子どもを運びはじめる。 
このあなたの中の死んだ子どもが、あなたの中のユーモアのセンスを破壊する。 

あなたは心から笑うことができない、あなたは遊べない、 
あなたは人生の小さなことを楽しむことができない。 

あまりにも深刻になるために、 
あなたの人生は広がるどころか、
むしろ縮小しはじめる。

私はいつも、
なぜキリスト教が世界最大の宗教になったのか 不思議に思ってきた。 
そして再三再四、それは十字架と磔にされたイエスのためだ、 という結論に達した。

あんなにも悲しげで、あんなにも深刻そうだ…… 
当然のことだが、 十字架上に微笑んでいるイエスを期待するわけにはいかない。 

そして無数の人びとが、 
自分と十字架上のイエスの間に類似性を見いだしたのだ。

その深刻さ、その悲しさこそ、 
キリスト教がほかのどの宗教よりも大きく広がった理由だった。
 

私は、
 私たちの教会が、寺院が、モスクが、シナゴーグが、 
  深刻でない、もっと遊びに満ちた、 笑いと喜びに満ちたものになってほしい。 
   それは人類にもっと健康で、完全で、 統合した魂をもたらすことになるはずだ。

だがここではあなたたちは……。 
少なくとも私のサニヤシンであることで、 
あなたたちは肩に十字架を担ぐ必要はない。 

十字架を捨てなさい。 
私はあなたに踊ることを、歌うことを、遊ぶことを教える。 

    生は、一瞬一瞬が貴重な創造性であるべきだ。 
        なにを創造するかは問題ではない。

           それは海辺の砂の城であってもいい。

だがあなたがなにをするにせよ、 
それはあなたの遊び心と喜びから出てくるべきだ。

あなたの子どもをけっして死なせるべきではない。 
その子に栄養を与え、 そしてその子が統制から飛び出すことを恐れてはいけない。 
その子がどこに行けると言うのかね?  

そしてたとえ、
その子が飛び出したとして、だからどうだと言うのか?  
制御を飛び出したらあなたになにができるだろう?  

あなたは
狂人のように踊ることができる。 
狂人のように笑うことができる。 
あなたは狂人のように飛び跳ね、走ることができる…… 

  人はあなたが狂ったと思うだろうが、それは彼らの問題だ。 

もしあなたがそれを楽しんでいるのなら、 
もしあなたの生が、それによって栄養を得ているなら、 
それが残りの全世界にとって問題になろうとかまわない。

Osho - The Rebellious Spirit