「お金なんかなくても生きていけるのだ」

わたしは正直、まだこの都留さんの言葉にはついて行けては居ない・・・
事実、喰うために働いている・・・

しかしこの「自己実現性」が体得出来ないと、やはりすべてが「絵に描いた餅」なのだ

・・・っとまあ、迂闊にも「ついて行けては居ない」と宣言してしまったわけだが、
  果たしてこれは「本当」だろうか? ・・・一瞬前の自分自身を疑うのは私のモットーであ~る

 ・・・もっと正確に状況を描写するならば

 「都留さんの言葉について行けては居ない」という状況を
  毎瞬毎瞬、せっせせっせと全身全霊で〝創造〟しているのではないだろうか? ・・・私は?

斉藤一人氏が言うところの

 「あんたたち、もてる限りの全力を振り絞って〝不幸〟になってる」   ってやつだ(笑)

OSHOが言うところの

 「孤児と飢餓を産み出すために、あの婆さんは中絶に反対している」  ってのもそう

  「不自由を毎瞬作り出しているのは自分自身」というテーゼを、
   私たちは重大な仮説として徹底的に、真剣に検証するべきでは無いだろうか?

〝自己実現〟とは絶対的に必要だ!
 しかしそれは、カネや権力や名声を手に入れると言うことではない
 それ・・・〝自己実現〟とは〝エンライトメント〟のことだからなのだ  OSHO

このOSHOの言葉に肯きつつも、やっぱり私は〝自己実現〟という言葉に抵抗を感じてきた・・・
なぜなら、この言葉にはどうしても
「出発すべき未熟ないま」と「到達(実現)すべき地点(いつかどこか)」とが、イメージされたからだ

しかし、エックハルト・トールが言う様に、
「人生の第一目的地」とは「いまここ」なのだ
「いまここに全てがすでに実現されている・・・」   よく耳にする話だ

ところがこのエックハルトの声明は普通に考えると実に不可解だ
  ・・・通常、「目的地」といえば「ここではない、いつかどこか」のことだからだ

スピでよく言われる「いまここ」、禅が言うところの「今中」、日常で家族に帰宅を告げる「ただいま」
わたしたちはこの言葉を耳にタコができる程聞いているウチに、それはなんだか天国のような
「いいところ」「至福の境地」という勝手なイメージングに陥っていないだろうか?

でも、わたしたちはすでに知っている・・・、目の前にある「いまここ」とは「地獄の一丁目」だ

モーフィアスとアンダーソン

だから
「さあ!瞑想しませう!」とはいうのだが
実際には「いまここ」から目をそらして、
パラダイスのようなお花が咲乱れる「いまここのイメージ」を探してはいないだろうか?

   ・・・ほれ、スピ系大好きな、そこのお嬢さん?あなたのことです

「あなた」も、「わたし」も、変わらないし、変わりようなどないし、改善など必要ない
そしてまた「世界」もまたそうだ・・・、  「いまここ」だって見かけは何も変わらない

じゃあ何が変わるのか?

      それは「もう引き寄せない」「もう新しい家を建てない」ということで
           「いまここ」は「パラダイスに変わっていく」のではないだろうか?





私たちが毎日毎瞬目撃している物理的な五感で知覚している・・・・ 「いまここ」

     わたしたちは記憶の感触と、脳で認識しているシチュエーションの推移を頼りに

         「ほら、わたしはいまここにいる!」
          ・・・と自分自身の現在位置を確かめて (グランディングして) いる

       ところが実際には、その
「いまここ」とは138億年の「過去の集積」

       実を言えば、脳は「いまここ」を知覚出来ないのだ
       通常では、脳は物理的な状況の把握に対して0.5秒遅れている

       だから、視覚神経の情報でマトリックスを組み立てる(内部表現する)ことなく
       即時に反応するカエルやカメレオンが蠅を捕獲するスピードに
       
私たちの視覚は追いつけないのだ
私たちは、
実際には自分たちの積み立ててきた「過去の成果」を
「いまここ」だと勘違いして生活している

それゆえに、
視覚や聴覚にあまりに支配されて (乗っ取られて) いて、
本当の「いまここ」には立ち会っていない・・・

だから、もし自分たちが0.5秒まえの状況からの憶測・・・

つまり
「138億年の延長線上」に自己証明(家)を積み上げないで、

   = 無為にとどまる === これ以上家を建てない = 

   そのときはじめて、
    138億年間に積もり積もったチリが払われて
          「いまここの知覚」が可能になる

・・・わたしたちはこの「膨大な歴史」にあぐらを掻いていたのでは、
   自覚としては 「何もしていない」 様でいながら
   本当は「138億年の話の続き」を・・・、
   無意識の激しい緊張の中せっせせっせと積み立て続けているのだ

   それゆえに私たちは
   いつも「古くさい、自分が大好きなド演歌」を歌い続け、
   その歌声に自分自身で聞き惚れながら自分自身を確認している  ・・・とも喩えられる

   このド演歌の歌声(古い世界観)は「他ならぬ〝過去の〟自分自身」なのではないか?

   では
   〝歌うのを止める〟と「どうなるのだろうか? 世界が消滅してしまう?」のだろうか?

        ・・・いや、たぶん消滅したりはしないだろう
           その時、この世界は「何一つ」変わらない・・・・

        ・・・でも「全てが新鮮 (無自我:アナッタ)」 なのではないだろうか?

もし、常に新鮮な人生を求めるならば、「私は知っている」という安心を捨て去り
徹底した「不可知論」、「全世界への懐疑」 つまり、「自分自身への懐疑」に溺れ死ぬしか無い

私たちは実際のところ
 「新鮮な、曇り無い目」で周りの人や、世界を見たことなどほぼないのだ

 私たちは、
  「決めつけ、先入観(定義、観念)や憶測、願望」を常に眼に一杯詰め込んで見ている

 そして「類友の法則」により、
  あなたのまわりも程度の差はあれ「似た様な世界観の人達」だろう


あなたの周りには強迫観念に取り憑かれている人はいないだろうか?

私の母は・・・・、
戦中戦後世代として常に「飢餓感」から一瞬たりとも意識が離れることがないひとだった
その代償行為として、周囲の人間に全てを責任転換して自分自身を見つめることから逃げていた

・・・・ところがその逃避そのものが、母に飢餓感をさらに煽るような状況を
        ダイソンの掃除機の様に吸引力の衰えることもなく引き寄せていた

わたしは子供ながらに
「なんでこの母親は間断無くキリキリと責め悩まされて生きてるんだろう?」っと不思議だった
自分自身もその同じ「寸断なき責め苦のプログラム」にすでに感染しているとはつゆ知らず・・・
 (・・・・いや、多分そういう人間だと分かってる上で、きっとわたしはこの母親を選んだのだろう)

「そこそこ成功した商社の社長令嬢」として
我が家の中でもっとも裕福な生活を体験していた母こそが
家族中に常に自分の「飢餓感」をばらまき、その放射能汚染の中心にいた・・・・

私たちは何かを「引き寄せる」必要は何も無い

  ・・・それ自体が「飢餓感」「欠乏感」「自己肯定への渇望」を動機としており
     その「引き寄せ」自体がさらに「飢餓感」「欠乏感」を増幅させるからだ

そしてあえて意図的に引き寄せなくても、
否が応でも、自分自身のシャドー、投影、姿見として、
「類友の法則」が、すでに周囲に様々な状況があるはずだ

一見自分とは正反対に見える人でも、
その対称性自体がある種の「共通項(カテゴリー)」を形成して
私たちの周囲を取り囲む  ・・・大概、「大きな嫌悪感」の正体とは「近親憎悪」なのである

「感情的に引っかかる」人間関係も、状況も無いのが「無為自然」だと思う

それは別に「世界が消えてなくなる」ことなのではない
あなたの意識が「無(=定義や観念から自由)」になった (・・・・リセットされた) だけだ




「自己実現した~い」っと願う前に、ひょっとして「もうしちゃってる?」可能性を考えるべきだ
「もうしちゃってる・・・」だからこそ「目の前は地獄の一丁目」なのじゃないだろうか?
そうでなくて「いまここに全て実現している」だなんて、いつ、納得出来るというのだろうか?

・・・これが「世迷い言」だとしたら、こんな仮説はさっさとぶん投げて仕事や勉強に没頭すべきだ

   でももし、この仮説が「正しい」のだとしたら、
    私たちはずっと「自己実現」に囲まれて、包まれて、生活していたことになる

       ・・・・これこそが「無償の愛」という言葉が指し示すものではないだろうか?

   「すでにそうであるもの」は、永遠にあがいても「実現出来る事は決して無い」のだ

  「トラはトラであることは出来ても、トラになる事は出来ない・・・」

   それがバガヴァンの言うところの「私は変わることができない」ことを受け入れなさい。
   という言葉の指し示すことじゃないか?っと思う


幸せになるのに、恋人は必要ありません。
津留晃一

あなた方を仕事に駆り立てる原動力は何でしょう?

ひとことで表現するならそれは
「幸せのため」ということになるでしょう。

幸せになるために
あなたは毎日行動し続けているわけですが、
どうして人は幸せを得るために、仕事をするのでしょうか? 

当たり前だと思いこんでいるだけで、
人はあまりその理由を考えたこともないようです。
幸せになるために
本当に人は仕事をしないといけないのでしょうか?

自分には、
好きなことをする力がないと信じている人は
(現代地球人の大半はそうなのですが)、

幸せになるためには基礎をこつこつと
築き上げなければならないと信じています。

恐れから出てくる発想です。

マイナスの想念世界で発想すると、
人は自分を守るために思考が流れます。

幸せの創造に意識は働かず、
自分を守る方に意識が向いてしまいます。

守ろうとする思いが敵を産み出すというのに・・・。

「働かざる者喰うべからず」
という強い強い価値観が今の地球を覆っています。

「働かないと生きていけない」と硬く信じていますが、
決してそういうわけではないようです。

そう信じているから
そんな現実社会を見ているだけだと伝えられました。

 「私は人に左右されず、
  社会に左右されず、
  自分に素直に、
  自分の好きなように生きていくのだ、

  好きなことをしているだけで
  絶対に生きていけるはずだ」

という生き方を、
他の人に先駆けて始める人達が出始めました。

この地球の変容の時期に、
そのために地球にやってきた人達が、
積極的にそんな生き方を始めています。

これを読んでいるあなたもきっとそのひとりでしょう。
これを読みながら魂が感応しているとしたらそれが証拠です。

貨幣経済社会とは
基本的には奪い合いの仕組みですが、
お金のない社会では、人は与えあわない限り生きていけません。

「お金なんかなくても生きていけるのだ」と、
  誰かがそんな生き方の手本を示すことによって、
  これまで通りの生活に嫌気を感じていた人達が、
   新しい生き方に同調してきます。

   誰かが勇気を奮って
   これまで通りの因習的生き方にさよならをして、
   新しい生き方をしてみせる必要があります。

あなたもきっとそんな人達の中のひとりではないでしょうか。

我々人間が根本創造神から与えられている能力は、

    「創造の自由」と
    「選択の自由」である、

      と初めに伝えられました。

私は長い間、
このことの意味が判りませんでした。

人は誰でも自由を求めますが、
それは好きなことをしたい自由であると考えたからです。
選択の自由が与えられたとしても、
行動が自由になるとは思えなかったのです。

   「自分には力がない」
   という考え方で今までうまく行かなかったのなら、

   「自分には無限の力がある」
   という考え方を選択してみることも可能です。

あなたが信じ、受け入れた考え方は、
やがて時間の経過と共にあなたの現実の中に浸透し、現れてきます。

望む結果を手に入れるのに、
必ずしも行動しなければならないわけではありません。

     ・・・・・そう思い込まされてきただけです。

      より有利になりたい、
      より都合よく、
      より豊かに、
      よりよい環境で、
      より優れるため・・・・、

あなたは行動をとり続けてきたわけですが、
そろそろそんな幸せになるために

    何かに成ってみたり、
    何かを手に入れてから・・・
      という考え方にしばし別れを告げ、

単に
幸せでいるための考え方を
選んでみるという生き方に
挑戦してみてはいかがでしょう?

   「選ぶだけで幸せが手に入るだなんて、
    そんな虫のいい考えが通用するかしら」
 
       という考えが浮かんできたとしたら、
       ただそのことに気付いていて下さい。

あなたの現実はあなたの選択の結果にすぎません。
では何を選択すればいいのか・・・。

・・・ただ単に
あなたの都合のいい考え方を選んでいけばいいだけです。

・・・ただ単に
あなたにとって有利と思われる考え方を選んでいけばいいのです。

実は今も
あなたはあなたの選択の結果として今の現実をみています。
あなたに今見えている環境は全てあなたの選び取った考え方の結果なのです。
あなたの受け入れた考え方が状況を産み出します。

     「この世にはあなたに災いをもたらす敵がいる」

という考え方をあなたが抱いている証拠として、
あなたに災いをもたらす人物や環境が現れてきます。

テレビニュースで流される殺人事件を見るのも
この世には自分の利益のために人をあやめる人がいるのだ
       という考え方をあなたが受け入れてしまった

    結果として、あなたのその信念を見せられているにすぎません。

    「人は互いに理解し合うことは不可能」

という信念の鏡として、
あなたの前にあなたを理解してくれない人が現れます。

あなたを判ってくれないその人は、
あなたの信念が創り出した映像です。

その人に
「あなたは私を誤解しているのよ」と
弁明を100回試みたとしても、その努力は徒労に終わるでしょう。

人の認識を変えようとせず、
あなたは自分の考え方を新たなものと取り替える事によって、
簡単に現実である他人があなたへの認識を変え始めます。

あなたが「あなたを批判する~その人」を理解して上げて下さい。

この世に「他人はいない」という考え方を選び取ってみて下さい。

そんな世界に誤解は存在のしようもありません。
今、時代が大きく変わろうとしています。

どうして社会が変化するかというと、
あなたの抱く信念を変える事によって社会が変わります。
革命や、活動によって社会が変わるわけではありません。

時代の変化とは意識の変化の事ですが、
それは単にあなたがこれまで抱いてきた信念を手放し、
新たな信念を抱く事によって起きてきます。

であるならばあなたにとって都合のいい考え方を
選び取ってみてはいかがでしょう?
そうすればあなたにとって都合のいい社会が
必ず現れてくる事でしょう。

    「都合のいいように考えればいいのですよ」
          と言うと、

     「じゃあ嫌いな上司がいなくなる
       と決めてしまえばいいのですね」
          と問うてきますが、
その人はまだ自分には嫌いな人がいるという信念は
握ったままですから、上司が目の前から消えたとしても、
又新たな嫌いな人を引き寄せてくることになります。
目の前の敵を払いのけようとするのではなくて、
自分が人を嫌う原因の考え方を変える方がずっと効果的です。
自分が上司を嫌っているわけを捜して下さい。

私がまず初めに皆様方に選択して欲しいのは

     「幸せになるために必要なものなど何もない」
              という考え方です。

幸せになるのにお金はいりません。
幸せになるのに恋人は必要ありません。
幸せになるのにどんな環境も必要ではありません。
こんな考え方を(信念を手放す信頼を)信じていると、
今この瞬間が、そしてどんな瞬間も、とても幸せに思えてきます。
生きている毎瞬毎瞬が至福の時へと変わります