つい先日の記事

七.忘牛存人(ぼうぎゅうそんにん)
 - 完全な自己責任に目覚めると「被害者も加害者も」居なくなる
  完全な自己責任とは窮屈さでは無く大きな自由な裁量、決裁権 - と書いたけれど・・・

        ・・・・この〝完全な自己責任〟に辿り着くのは、非常に難しいことだ
             「外側に原因を探すようになるのも無理からぬことだ。」
                           とOSHOは言っている・・・

                だが
                「これこそカルマの理論のすべて」だともOSHOは言う

            因縁果報の「因果律(科学的思考)」だけに目が奪われると、
                 私たちは「原因と結果」だけを追いかけることになる

ところが、
本当の原因とは必ずしも「見えるところだけ」「記憶しているところだけ」にあるとは限らない

          ・・・・すると「不当な仕打ちを受けた」と私たちの〝理性〟は判断する

ところが、  「縁(えん=因に引き寄せられた人間関係や状況)」によって
        機械的に見える因果律への「報い方、報われ方(応報)」は大きく変わる

     バシャールも再三言っているように「起きていること(いまある結果)は常に中立」だ
      そこから如何なるメッセージ「吉報、凶報」を受け止めるかは、解釈次第だ・・・

痛みや苦しみをも、祝福できる
・・・

         ・・・なぜなら、すべては「バランスを取ろうとして」起きていることだからだ
               決してヤセガマンや作り笑いをしろという意味では無い
               「マゾヒスティックな歓び」で自分を虐げろと言うことでも無い

斉藤一人が、
「凄く困ったことが起きたなら、ツいてるな~(素晴らしい機会が来た)と思いなさい」
                   と言っているのは多分このあたりだ

特に商売をしている人などは、こういった「トラブル、苦情、追い詰められた状況」そのものに
いままででは思いつかなかった素晴らしいビジネスチャンスが隠れていると知っているからだ

現在多くの企業が、クレームの内容とその処理方法を「ビジネスチャンスの宝庫」と捉えている

そしてこれは健康のことでも言える

病気の症状や怪我そのものは
突発的に突然表面化したように見えるが
実際には、「突然起きる」ことなどないのだ・・・

・・・往々にして、長い長い身体への無理が症状や怪我などに噴出しただけだ

まだ何も見えていなくとも、まずは「あ!ツいてるぞ!」と吉祥と捉える・・・
・・・一見マゾヒスティックな馬鹿げた対応だけれど、
これによって
  <困って焦って視野狭窄に陥って、いわゆるパニックを起こす> ことなく
                 リラックスした視点で物事が見えてくる

 ・・・そして「結果から原因へと」因果律を遡って原因に働きかけることが可能になるわけだ


カルマとは、
即物的な、機械的な、ターミネーターみたいな反応を繰り返していることによって起きる・・・
機械とは、そこに意識的な立ち会いがなく、〝科学的な〟因果律だけで動くカラクリ仕掛けだ

ターミネーター「体験」

それはそれで「何も間違ってはいない」・・・血の通わない機械的法則がそこにある

 ・・・その「正しさ」にあぐらを掻いた時、私たちは「間違い」を繰り返す
           ・・・針の飛ぶアナログレコード(古い例えだ)のように延々と繰り返す

そこで、(ひょっとしたら前世から、あるいはご先祖様から)
「延々と繰り返し続けたプログラム」を書き換えられるのは、 ・・・・意識的な人間だけなのだ

OSHO Japanese

OSHO : 責任/responsibility

 「人は自分のまいた種を刈り取らねばならない」
ということわざがある。

自分が惨めなのだとしたら、
それは惨めさの種をまいたにほかならない。
ほかの誰かがあなたを惨めにしたわけではない。

もちろんまくことと刈り取ることのあいだには大きな隔たりがあるので、
その隔たりゆえに私たちは誰かに責任があるのだと考える。

その大きな隔たりが私たちの目を欺く。

 私たちは数多くの過去生において、
自分が自分自身に何をしてきたのかを知らないので、
急に何かを刈り取らなければならなくなって、
それがどこから来ているのかわからないとき、
外側に原因を探すようになるのも無理からぬことだ。

それを見つけられないとなると、
私たちは何かをでっちあげる。

だが、これこそカルマの理論のすべてであり、
私たちは自分がまいた種を刈り取っている。

 自らの人生のすべての責任を引き受けなさい。
もしそれが醜いのなら、その責任を感じなさい。
それが苦悩にほかならないのなら、
その責任を取りなさい。

最初のうちは「自分が自らの地獄をつくりだしている」
ということを受け入れるのは難しいだろう……

だが、それも初めのうちだけだ。
 じきに変容の扉が開きはじめる。
なぜなら、

    自らの地獄に責任があるのが自分なら、
    自らの天国をつくりだすこともできるはずだからだ。

自分が自分のために
これほどの苦悩をつくりだしたのなら、
私は多くの歓喜をつくりだすこともできる。
責任は自由をもたらす、責任は創造性をもたらす。
 
 自分のいまの状態は自分自身がつくりだしたものだと見抜くとき、
 あなたはすべての外側の原因と状況から解き放たれる。

いまやそれは自分しだいだ。
美しい歌を歌区こともできるし、
美しいダンスを踊ることもできるし、
祝祭の生を生きることもできるし、
あなたの生を絶えざる祭りにもなる。
誰もそれをじゃますることはできない。

これが人間の尊厳だ。
神は<個>を大いに尊重する。
人は自らの責任を自らの肩に担ったときに、初めて<個>になる。

scriptures in silence and sermons in stone

OSHO Japaneseさんの写真