よく、「人生で見るもの、聞くこと、体験することは自分自身の内面の鏡だ」という

・・・これは、シンクロニスティーという形で時々垣間見ることも多いし
  自分自身が感情的に反応したことをよくよく洞察してみると
  「そいつが悪いんだ!」という善悪、責任の所在、正義やら道理やらが重要なのではなく、
  自分自身の投影が、様々な状況にエモーショナルに反応していることが重要なのだと気付く

それゆえに「唯ひとつの革命」とは自分が見ている三次元(ホログラム)映画の投影結果を
修正しようとすることではなく、様々な身勝手な投影をしている自分自身の正体を見抜け!
・・・っということになる

つまり、
そこから先は「識別心を脇に置いて」ひたすら自分の内外に起きていることを静かに見守り続ける
ということが唯一のワークとなる

するとあまりにも多くのことが「機械的な反応」であると見えてくる

これはパラドックスの典型だ・・・

・・・自分自身が全くの無意識(慣性、機械的反応)に埋没していると、当然、
  他人もまた過去の条件付けやら個別の体験、ストーリーで培われた人格を、
  「その人自身なのだ」だと思い込むだろう

   ・・・その集積された過去の違い、機械的個別性には分離があり、確執がおこる

     ところがだんだん、これらの「自他の違いと衝突、勝敗」には要点がないのだと分かる

  誰もが自分なりの「ド演歌」「浪花節ぶし、カツオブシ」を持っている
  これらの確執やら、相互理解やら内容そのものが重要なのではなく
  それらの内容、ストーリーに対する「思い入れ」「肩入れ」にこそ重大な錯覚がある

  「ひとりになる」「ALONEであることを受け入れる」とは
      片意地を張って何かの信念に凝り固まって他者との妥協を拒むことではない

     もちろん、
     他人を拒絶してしまった方がインスタントな孤立なら得られる・・・・
     でもそれは物理的な孤立に過ぎず、本当のALONEではない

      本当のALONEは信念に凝り固まった
      「名誉ある孤立」でも「自尊心に溢れた孤高」でもない ・・・似て全く非なるもの

     そもそも〝妥協〟という発想自体が背景に信念体系があることを暗示している
     〝妥協〟「するか?」「しないか?」という選択の時点で、もうすでにALONEではないのだ

     何の信念も、何の基準も価値観も識別もなければ、そこに〝妥協〟の問題は起きない

     全ての信念体系は過去にもたらされた〝身構え〟からくる
     あらかじめ想定された事態に対する、あらかじめ用意された回答だ

     こういった〝信念〟とか〝意見〟同士が空中戦を繰り広げるのが〝議論〟だ
     どちらが勝っても負けても、「過去に仕込まれたプログラム同士」の勝敗に過ぎない

他人が自分の鏡なら、自分も叉、他人の鏡、世界の鏡なのだ

議論とはロボット同士の、プログラムされた者同士の闘いで、
自分自身(肉体、思考、感情)の〝反応〟もまだまだ〝機械的反応〟に過ぎない
どちらか片方が〝いまここ〟に生きている存在ならば、そんなロボット・バトルには加わらないだろう

そこに距離があればあるほど・・・  つまり醒めてみていればいるほど・・・
自分の〝内側〟と思い込んでいたこととは、実は〝外側〟・・・ドラマの一部に過ぎないと分かる
何に対して〝賛成〟か?〝反対〟か? どんな世界観に〝同意〟か?〝同意出来ない〟か?

   ・・・・そんな議論に、のめり込んでいる時点で、あなたはすでに「瓶の中のガチョウ」なのだ
   自分と他人との合わせ鏡の相互投影の中で、エンドレスに続く投影合戦をやり合うことになる

  すべてが、反射の、反射の。反射・・・・・・
  すべてが、コピーの、コピーの、コピーだった・・・
   だとしたら「わたし自身(オリジナリティー)」なんて一体どこにある?

                ・・・・この「投影合戦の勝敗」には大した意味は無い

   にもかかわらず、だれもが、あなたに聖戦への参加を呼びかける、あなたに同意を求める
   ・・・それらすべてが「瓶の中のガチョウたち」のストーリーなのだ

それらに「参加してはいけない」と言ってるわけではない、
ただ誰もが自室で悪夢にうなされてクロールを泳いでいるのだと判れば良い

それらの「堂々巡りのエレクトリック・パレード」の、どのあたりに身を置いているにしても
そこで、醒めて立ち止まってみる時・・・そこに本当の「孤高=ALONE」がある、と言いたいのだ

自分の肉体がおなかが空いた、そして何かが食べたくなった・・・だったら食べればいい
でも「食欲から解放されること」は、すなわち「不食とか断食」であるように見えるかもしれない

・・・もちろん「その方が体調が良い」人ならそれで良いとは思うが
  「不食とか断食」がすなわち「食の超越」と考えるのは短絡的なことだ

それはあたかもヒキコモリになって、「自分は対人恐怖症を克服した」と思い込むようなものだ
頭だけを地面に突っ込んで隠れたつもりになったダチョウのようなものだ
「食べない」ことが「食を超越する」ことではない、むしろ囚われてしまう可能性がある

  「その方が体調が良い」のではなく、ある種の信念体系として「頑張っている人」というのは
  別に「食から自由になった」というわけではない

  「頑張っている人」というのは、かならず強迫観念に取り憑かれるだろう・・・

  そしてそういうひとは「頑張っていない人」を非難したり見下しはじめる
  ・・・そんなひとを「超越した人」と呼べるだろうか?
     つまりこんな人が「自らの投影に縛られた人」なのだ

   「超越する」ことを「超人になる」ことと、多くの人は錯覚している
   そういう錯覚に基づけば悟った人というのがスーパーヒーローだと思い込むのも当然だろう

 本当に〝超越〟した真の超人とは、みな「あたりまえ」の、「強迫観念が何も無い」天国の住民だ
 だから、世界に対して自分自身の〝物理的な超人指向〟という強迫観念に基づいた投影を
 一切しない

    「投影を一切しない」 「自分自身からの自由」 それが最も偉大な奇跡なのだ

日本語的には、一切の役に立たないことを「おシャカになる」というが、
釈迦とは、まさしく役立たずだ・・・  こと「社会の改善」「正義の闘い」に関しては・・・

しかしそのことが、実は最大の社会貢献である、個人が背負える最大の責任だ

誰もが民主主義という大義、参政権という極微な人数割りの権利の元で、
「右だ、左だ」と文字通り右往左往している

しかし「頭数割の均等な権利」とは欺瞞以外の何ものでも無い・・・
「あなたも決定者の一員ですよ」という代表者の選択の責任者であり、強制参加者であること
意味しているに過ぎない

本当の決定は常に個人だ・・・  しかし、それはあまりにも致命的だ
いつも責任を誰かになすりつけたい、分散させたい・・・
そしてしくじったらうやむやにして、そこから逃げ出したい、その邪悪な意図が現在の選挙制度だ
 
何万人分もの生命を左右する程の国家予算をちょろまかせても縛り首になる事はまずあり得ない
だから政治の世界は美味しい

「役立たずのおシャカ様」の最大の社会貢献とは、「静寂と洞察の発生器だ」という点でなのだ・・・
彼の存在全体から〝無(いまここ)〟の波動が発生している

彼は肉体は存在していても、アイデンティティーは〝無〟に属している
それがこの三次元世界に巨大な役割・・・・『吾は〝無〟なり』という覚醒の波動を発している

「見抜くこと」  ・・・これが、人間に生まれた知性が為し得る最大の社会貢献、世界貢献なのだ

ディヤン ムディトさんの写真

ディヤン ムディト  JOY
14時間前 ·

<OSHO初期書簡集より> 4     (1962年)
拝啓
愛情のこもった便りを、ありがとう。
あなたは、瞑想をしていると言う。
それは、喜ばしいことだ。
瞑想で、何かを達成しよう、という観念は、
いっさい捨てなさい。
ただ、自然に、瞑想するがいい。
起こることは、自然に起こる。
ある日、骨折らずとも、
あらゆることが、ひとりでに、起こり始める。
努力というものは、瞑想には、繋がらない。
実際には、それは邪魔物だ。
努力、訓練、勉学、というようなものは、
その中に、緊張がある。
どんな期待でも、
たとえ、安らぎへの、期待であっても、
落ち着きのない状態を、もたらす。
その緊張が、なくならなければならない。
緊張が、なくなるや否や、
聖なる安らぎが、訪れる。
「自分が、やっている」
という感覚を持つのを、やめなさい。
その代わりに、
「在る、そのものの手に、自分をゆだねる」
ということを、了解するがいい。
明け渡すのだ。
自分を完全に、明け渡し切ってごらん。
これをするが早いか、「空」(くう)が訪れる。
「呼吸も体も、リラックスして来ている」
と、あなたは言う。
これが、マインドについても、起こるだろう。
マインドが去った時、
何が起こるかは、筆舌に尽くしがたい。
私は、あなた方、両人に、
これが、起こるであろうことを、知っている。
ただ自然に、目的意識を持たずに、続けなさい。
まもなく、私も、そちらに行く。
それまで、私が今、言ったことを、
静かに、続けてごらん。
みなさんに、よろしく。
書きたくなったら、いつでも、手紙を書きなさい。
私は、完全な、至福の内にある。

OSHO:「ア・カップ・オブ・ティー」(めるくまーる社)より