あるところに一匹の鶏が座っていた・・・ブッダのように

そこに人間が来る気配がして、鶏は急いで逃げ出した
暫くして帰って来てみると、そこには彼の大好物のえさが置いてあった

次の日も全く同じ事が起きた

そして次の日も、その叉次の日も・・・・

それごとに彼は人間を警戒して、逃げ去ったが、その後には必ず彼の大好物が残されていた

こんなことが999日間続いた

そして千日目の日、彼はいい加減自分の警戒心がバカバカしくなった

  「毎日大好物を運んでくれる親切なあの人に対して、
              私はあまりにも非礼ではないか?」

そこで彼は、千日目にやってきたその人間にお礼を言いに姿を現したのだ・・・

・・・そのあとそのニワトリがどうなったかは分かるね?

           彼はその人間の夜の食卓に上がったのさ・・・

OSHO(記憶を辿って記述)

これは忘れ得ないとても単純なたとえ話だった・・・
 「確率論的な確信が、いかにアテにならないか?」という比喩だ

「ブッダのように座るニワトリ君」の運命ははじめから決定していた
その〝親切な人間〟とは、はじめからニワトリの警戒心を解こうと、せっせとエサを運んでいたのだ
それが99日目であろうが9日目であろうが、本当は状況は全く同じだった

・・・彼が警戒心を解いてノコノコ姿を現した時、彼は晩餐にされていただろう

このたとえ話の場合、相手は「はじめからニワトリを狙っていた腹を空かせた人間」だった
では相手がそういう「邪悪な意図がない自然物」ならば?

・・・それでも、本当は話は変わらない

諸行は無常なのだ・・・  この世界の森羅万象に「絶対的な保証」は一切求められない
私たちはいわゆる「科学的な統計、確率論」に基づいて生きている・・・  それはやむを得ない

千年間、崩れることがなかった山道が、今日は土砂崩れを起こしあなたの命を奪うかも知れない
・・・その確率は極めて小さいかも知れないが、それでも「起こるべき時には起こる」だろう

  戦後70年間平和だから、きっと明日も平和だろう・・・  そういう〝目論見〟で明日の予定を
決定するのは当然だ・・・  ただし、「醒めていろ!」という条件付きだ

     「いつも油断なく醒めていなさい!」

   これが覚者達の基本的なメッセージだ  ・・・「そうでないとあなたは晩飯にされるぞ!」

OSHOにせよ、クリシュナムルティーにせよ、「私は何も信じない」と宣言しているが
それは一切の信頼関係を誰とも何とも結ばないと言う意味ではない

 ・・・ただ、「信頼」とは無条件な尊重だ、誰にも、何にも、「諸法無我」の悟性が宿っている

  ・・・銀行が審査をして融資するかどうか?  そこには多くの「信用のための条件」がある

地震が多い我が国では、昔から「無常観」は常に人々の根底にはある・・・それゆえ「諦観」も強い
敗戦も、関東大震災も、阪神淡路大震災も3・11も、黙々と耐えてきた日本人のメンタルはそこだ

・・・しかしそれだけ、「すがるもの」を求める弱さ、甘さも強烈だ・・・  「死」をも恐れぬ程の絆を
  狂おしい程、必要としている  ・・・その対象、心のよりどころが「天皇陛下」であったが故に
  昔からの無常観を変わらず保ちつつも、その為の「心の支え、拠り所」が無い日本人の
  日々を生きる「漠然とした不安(芥川龍之介)」が如何に根深いものか?

「天皇陛下バンザイ」という神風特攻隊が終わった後、戦後の物資の欠乏した日本人は
最も宗教的な〝耐性〟が強い民族になったかのように見えつつ、モノが豊かになった後の
現在は、たぶん世界一「漠然とした不安」に蝕まれた精神の民族になってしまった・・・

・・・こんな状況で神風精神とやらをまた担ぎ出すカルトが政権を乗っ取っていても
  何が不思議だろうか?

2016年02月28日
カルト化した首相官邸<本澤二郎の「日本の風景」(2278)

      <神道の広告塔になった首相夫人>

      <先進国首脳夫人を伊勢神宮参拝?>

OSHOやクリシュナムルティーの「何も信じない」という不可知論が、
今もっとも分からなくなってしまった・・・  つまり何かにすがりたくて、安心の中にまどろみたい・・・
それが今の私たち日本人の 「隙だらけの・・・、空き巣天国の・・・」  メンタルじゃないだろうか?

いま、私たち日本人は、「晩飯の食材に」されようとしている