「探求」は好きなだけ、無限に、永遠に可能だ・・・
・・・・なぜならば「探求」「冒険」ということ自体が球体上の表面の旅だからだ

その代表的なのが私たちの住む地球の「地平線の旅」「水平線の航海」だが
じゃあ、「地球の重力を振り切って宇宙に飛び出せば三次元の(垂直の)旅になるじゃないか?」と
いう声も出るだろう・・・

 確かにもし「宇宙の旅」が一般的に可能に成っている頃には、もうすでに私がこれから書くことは
 「古くさい常識」になっていることだろう・・・しかし、この「もし」は今の段階では大いなる疑問なので
 やはり書き残しておきたい


私たちの意識の次元が
一段上昇したのちの(いわゆるアセンション)世界から見るならば
今の私たちが「三次元」と思っている広がりの世界も、実際は・・・・

    「事象の表面上をなぞっているだけ」   ・・・だったということになる

   つまり、「表面に光を当てて物体を観察する」ことで
   その観察対象の中身や本質を理解しようとするトンチンカンな探求だ

対象に対して観察者(オブザーバー)自身とは切り離された〝客体(オブジェクト)〟として
観察対象を見なす〝冷たい〟探求方法は、なにも量子力学の世界をわざわざ引用しなくても
私たちは日常でも痛感しているはずだ

  女性達はいつも男性の性的な好奇の目が自分の身体をなめ回すように見る視線を感じている

  男性だって、他人の視線を感じで、自分の振る舞いを変えることなど幾らでも有るはずだ

                 まったく純粋に客観的な観察など本当はこの世にはない、不可能だ

それゆえに私たちは事実として三次元世界で生活してはいるが、表面的にしか生きていない
その意味では比喩的表現ではあるが「二次元的」意識でしか生きてはいない

だから「次元上昇」というと「次元数、あげりゃいいんでしょ?」ってことで数学をもてあそび
日常感覚とはどんどん遊離して「四次元、五次元はあたりまえ~!」っとなる・・・

   ・・・ビックカメラかよ?

実際には、意識の垂直的な上昇とは、「枝葉と根」の様に「上昇と下降」との両方が含まれる・・・
「物理的な次元の表面的観察」ってのは「生命の樹」でいえば、まだまだ「マルクト」の範疇を出ない

    しかし、この「マルクト」・・・グラウンディングこそがアルファでありオメガでもある

つまり「どこかに行って何かを獲得する」という乞食根性そのものこそが、「水平的思考」であり
つまりはこれは別名「分離感による世界観」だ

        「自分は欠落者、部分的存在だ、だから何かを補い、何かになりたい」



「全ては夢である」という自覚、つまりそれは、「無自覚の自覚」と言い換えられる
「自分は如何に醒めていない(明晰さの中にいない)か・・・?」
それは、実際に「目覚めていよう」と死に物狂いで努力すればするほど分かる・・・

 ・・・この努力をテキトーに投げてしまったのでは、その「不覚醒に対する覚醒」は痛烈ではない

  ・・・そしてこの痛烈さは、まず〝嘆き〟で自らを打ちのめす、

     そしてこれは、見た感じ、折角の自己受容への内面の道に強いブレーキを掛ける
      それゆえに「自己保身」と「自己受容」とを混同している人はこの時点で逃げる

 しかし、
 「これら全てに対して自分には全面的な責任がある」という勇気を振り絞って踏みとどまると
       その「全面性」の受け入れ自体が奇跡を起こす

    ・・・・つまりそれこそが
        「いまここの自分自身こそがもっとも全面的な責任をとった状態」だ・・・・
        「中心へ放り出された状態」だ・・・

             ここに真の自己受容がある

「自分は何も分かっていなかった、わたしという意識はあまりにも散漫で部分しか見えていない」
それらの〝嘆き〟は徹底すると「自己批評」なのではなく、逆に「自由」をもたらしてくれる

「どこにいくべき、何をするべきだというのだ?誰のため?何のため?どんな風にならねば?」
それらすべての自分自身への注文、追求はナンセンスだと判り、爆笑してしまうだろう
                ・・・・〝嘆き〟は限界に達すると爆発してしまうのだ

「自己批評」している間は、まだ自分自身にそれが「可能だ」という思い上がりがあるからだ

  それこそが「牢獄だ・・・  心を縛る」



   「私は何も知らない」ということが自由であることの中心だ

      そして中心とは「点」だ、そして「点」とはゼロ次元だ