「無とはnot thingであってnothingではないよ」

             ・・・・というOSHOの言葉は、このブログで何度も紹介した

実を言うとこの記事を書くに当たって、はじめは以下の様なタイトルを考えていた
「not thing(具体的な何かではない)とnothing(具体的なものが何も無い)との違い」

  ところが具象的なものではなくても「抽象的なもの」なら・・・「どうよ???」ってことになる
  ・・・それはたとえ物理的なもの=thingでなくてもデーターとしてなら有る」と言える

苫米地氏は、もっとも抽象的な概念として、「空」をあげた
なるほど「からっぽ」というのは、なにひとつコンテンツ(内容)が無い状態なのだから
一見最も「抽象度が高い」と言える

「物質の究極とは何か?」というアプローチは量子力学等で、核心に迫りつつある様だけれど
果たしてその先に「空間」という究極の「存在の正体」が解明出来るだろうか?

果たして「在る」と「不在」との境界線は見つかるのか?っと問い詰めた時

  「それは粒子でも波動(エネルギー)でもない」「それは情報(データー)だ!」
              という仮説をエハン・デラヴィ氏は「エハン塾」動画で紹介していた

  わたし自身も「そうかも知れない」っと考えた

そうであるならば、最も抽象度が高いと苫米地氏が言う「空」の〝正体〟は
ひとつの巨大なメモリーエリアの中であり、「在る(有)」を〝1〟「不在(無)」を〝0〟とする
データーフォーマットの広がりではないか?という仮説が成り立つ

・・・そこで、映画「マトリックス」の世界観が、かなり有力視されていく

  ---私たちの住むこの世界の空間に、果てはあるのか?---

               答えは「果ては無いですよ~」とアッケラカンと回答可能な世界観だ

   すべての根底が「データー」ならば、「外側(メインフレーム)から」パラメーターを入力すれば
   世界の果ては無限に付け足すことが可能だ

 ところがこの「かなり有力とも思われる仮説」には困った問題が有る

もし、この空間が、「情報の広がり」であるならば、そこには「リローデッド」で描かれている様な
「メインフレーム」がなければいけない・・・

アーキテクト~matrix

どこまでも果てしなく広がっていると思われた宇宙空間には、実はフレームが有り、
そこで定義された「宇宙法則」に従って、無限とも言えるほどの高速な演算が
今私たちが暮らしている三次元世界の根底なのならば・・・??

・・・では、その凄まじい演算速度のメインフレームが存在する世界はどこに有り?
                          何の目的でこんな演算をしているのか?



ネット上のニュースでは
「そのメインフレームは200年後の地球であり、私たちはそのコンピューターの中で暮らしている」
というかなりコアな発表を、あるイギリスの科学者だか、科学チームだかが大まじめに発表している
のを見た記憶がある  ・・・まさしく、マトリックスの世界観、そのままだ

しかし、私たちの外にあるという、より高次元の世界にも「空間が存在する」のなら
「そのメインフレームの、より高次元の世界の空間」は果たしてどうなっているのか?
やはり情報なのか?、データーなのか?・・・
「神の究極的な目標など有るわけ無い、なぜなら、それに対して『じゃあその目的は?』と
いくらでも質問し続けられるからだ・・・」  OSHO
・・・なんじゃこりゃ?いたちごっこじゃ無いか?  結局何の解答にも成っちゃいない!

私たちは、  「仏の手の平の上の孫悟空」の様に、
           またしてもこのOSHOの言葉に立ち戻ることになってしまう・・・

つまり、上記の「説明」はやはり単なる「説明」を超えておらず、存在の根底を
有るかどうか判らない「上位世界」に原因をなすりつけたのに過ぎない(笑)
これでは「神様が作ったんだよ」「スゴイ進化した宇宙人が・・・(ry」という説明と、大してかわらない

              ・・・・まるで自分の尻尾を追いかけている子犬じゃあるまいか?

       ---「説明」とか、「解釈」とかは、すべからく---

            すべてが、本質的に「そういう堂々巡りするものなのだ」ということに、
            私たちはいい加減気が付かなければ (降参しなければ) いけない様だ・・・

話を最初に戻そう、

・・・たとえ抽象度が高くても  ・・・それはデーターとして〝存在する〟といえる

1個のリンゴが、「どこにあるのか?」それは空間上の「どこか」を指さすことが出来る

抽象的概念としての「数字の〝5〟は、どこにあるのか?」

それは、空間上のどこも指させない・・・  全く単位の定まらない数字とは抽象概念だからだ
                 では「数学はこの世に存在しないか?」・・・もちろん「否」である

  具体的概念であれ、抽象的概念であれ、実は〝無〟を説明出来ない

         ・・・つまり、言葉や記号、象徴、データーでは〝無〟は説明出来ないのだ

  じゃあデーター無し・・・コンピューター用語のNULLでは?

  一見NULLはあらゆる定義を否定しているようだが、これもまた「定義の一種」だ
   ・・・・「データーが何も無い=定義無し」では無いのだ

   物理三次元空間上のNULLは、どの様に表現出来るか?

「空間」という言葉は
〝空(くう)〟という区切られていない三次元の無限の広がりと
〝間(あいだ)〟という複数のポイントの隔たりのある区切りを意味する単語とで構成されている
 ・・・この〝間(あいだ)〟の隔たりが完全に無い状態、隙間が閉塞した部分をNULLと呼び得る

うん、確かに「何も無い!」

  ・・・ところがどっこい!「そこ」を指さして「はいこれがNULLです」と呼称した瞬間、
    その三次元空間上に隙間はなくても座標が残る! 

    「何かを定義しようとする試み」とは、「〝それ〟を指さす試み」ということなのだ

     その〝指先の先端〟が実際の、具体的三次元空間の「どこか」であろうと
                           抽象的な概念上の「どこか」であろうと・・・

              ・・・さらにはそこに指し示されているものがたとえNULLであろうと

        それは〝無〟であるとは言えないのだ!!!

〝何か〟を指さす試み、それ自体が、具象上、抽象上であれ、位置づけ、特定なのだ
そしてそうである以上、その位置情報、特定情報が発生してしまう

つまり
何かに対して論理的に定義するためには、理工学的であれ、人文学的であれ
その定義情報が発生してしまうために、もはやそれは〝無〟ではない・・・・
    定義情報そのものが空っぽ、NULLである時に、それが〝無〟だ・・・・

  もちろんそんな事になった時、〝無〟とはあらゆる議論から滑り落ちてゆく
   議論すべき対象の定義が不能な時、全ての議論は不能になる

私達の日常会話で使う“無い=ナッシング”というのは、
定義された〝何か〟が、ある場所ある時点で〝不在〟であることを意味する

  今手持ちの筆記用具が〝無い〟 
   この動物園にはパンダは〝いない〟
    この田舎にはスタバは一店舗も〝ない〟・・・・

 筆記用具が〝必要〟になった瞬間に、筆記用具の〝不在〟が問題になる
 動物園を見学中、息子が「ここにパンダはいないの?」と尋ねられた時パパはそう答える
 都会からUターンしてきた男が田植えの最中、突如スタバが恋しくなり一面の田んぼを見渡す・・・

これらの〝無い〟は主語ではなく、ある主語となった対象の〝不在〟を意味する
つまり〝不在〟を意識するとは、その手前にすでに定義された〝存在〟が暗黙の前提になっている

 ・・・筆記用具、パンダ、スタバという存在を前提にしなければ、その〝不在〟を意識しようが無い

   そうだ!、ナッシングというのは単に「何も無い」という意味では無く、
   その背景にさまざまな・・・「需要、必要性、期待、欠乏」の意図、暗示が含まれている

人は、何一つ動機も欲望もなしに、〝何かを指さす〟事は決してない・・・なにげなしであれ
そこには欲望や必要など、動機が隠れている

理数学的には、ナッシングとはただの〝ゼロ〟だが
人文学的には、ナッシングという言葉は数字の〝ゼロ〟だけでは言い表せない意味が有る

人は、「何も無いこと=ナッシング」に虚しさや退屈、不安を抱く・・・
だって「何か=サムシングがない」と最悪は生存が脅かされ、たとえ生存条件が満たされても、
次には
自分自身「存在価値」「存在することの意味、理由」が・・・
自分の存在を支えてくれる「何か」が欲しくなってくるものだ・・・

  ・・・正当な、納得出来る理由が!

殆どの人間の人生が、この「サムシング」探しをして、生涯を終える・・・
    ・・・・財力、権力、名誉、やりがい、生き甲斐、理想、目的、大義

そして、
  「これだ!」というものを見つけた人、掴んだ人を「成功者」「果報者」と人は称賛し、羨望する
   ・・・あるいは当然、本人も、そこに満足する場合はある

  ところが、先日亡くなった、ジョブスでさえ死を前にして、これらの達成感が
  つかの間であること、空虚なものであること、人生における大きな勘違いであることを痛感する

  いや、「一つの世界の頂点まで極めた男」ジョブスであるからこそ、余計気が付いたのだと思う
・・・・彼が「IT業界の帝王として、いまだ、道半ば・・・」で死を目前としても、
   果たして同じような自覚に達しただろうか?

  ・・・単に「道半ば」であったことを悔やみ、憂いただけじゃないだろうか?

     これはつまり、「達成の〝無意味さ〟」を理解した帝王だけが達成した理解だ

 ・・・そう考えれば、彼の最も偉大な業績はIphoneなのではなく、最後の言葉なのかも知れない



  彼は死の間際に「エヴリシング イズ ナッシング すべてが虚しい」と呟いたわけだ

   「・・・エニシング 何一つ残らなかった」っと

     人が幸福になるためには「アップル帝国」は必要なかった・・・

    たった一台のIphoneすら必要なかった・・・

死の淵のジョブスをもし救うものがあったとしたら、それはノット・シング〝何か〟ではなかった

   世界中のあらゆるモノを手に入れた彼が、
    いったいどんなオモチャを手に入れたら幸せになれただろうか?

 ・・・そんなオモチャなど、世界中どこにもなかっただろう、あれば彼は手に入れることが出来た
                           「無いから作った・・・」それがアップル製品だった、
                          でもそれでは死を目前にした彼を満足させなかった

 言葉で定義しうるもの・・・、指さして「欲しい」と言えるもの・・・ それらの全てが死と共に消える

  このバカバカしいほど当たり前の事が、
   禅やヨガを愛した賢いジョブスでさえ死の淵に追い詰められるまで気が付かなかったのだ!

本当は、「エヴリシング イズ ナッシング・・・」ではない

真実は、「エヴリシング イズ ナット・シング」なのだ

 存在するもの全ては、見かけ上は様々だが、その本質は「非在=定義し得ない〝無〟」なのだ

わたしたちは、ネーミングし、定義することで、あらゆるモノを「日常品」「ありふれたもの」にした
あらゆるものを既知のものとして飼い慣らし、コントロールし、大量生産し、そして商品化した・・・
実のところそれこそが、不幸の始まり、退屈の始まり、人生の新鮮さの抹殺だったのだ

  もちろん結果として、私たちの世界は言語によって、定義によって、解明によって・・・
   ・・・学問や理論によって、科学技術、科学文明によって、「便利さ」「生産性」は獲得した

   しかし、新鮮な驚き、新鮮な歓び、「人生そのものへのタッチ」からは遠のいた・・・

    無という言葉を「不在(虚しさ、侘しさ)」と解釈している以上、
     わたしたちは人生の虚しさから決して逃れることは出来ない
        子供の様なワクワクした歓びを思い出すことが出来ない

    誰もがIphoneを手にしつつ、すれ違う人の顔を見合わせることもなくぶつかっていく
     この街ゆく人々の何人が、ジョブスの最後の虚しい断末魔を理解出来るだろうか?

      ナット・シング=非在とは、アン・マニフェスト(非顕在なるもの)と言う意味だ

すべてのすべては、「見かけではない」のだ、「ありふれた既知なるもの」など何一つ無い

 目で見えるものの物理的なうわべの姿は変化がなくても、
  死んだ過去の目で見ること無く、思い込み、固定観念もなく新鮮に見た時、
        すべてのものごとが内面から発する存在の輝きはまったく変わる・・・  

 それは息を引き取る直前のジョブスにも、子供の様な純粋な目を取り戻すことは
                    ・・・・本当は可能なことだった、起こり得ることだった

なぜなら最後の一息まで、人生とは「愛する」ために与えられているからだ

        ジョブスは「ああ、もっと愛すれば良かった」と嘆き悔やむヒマがあるなら、
        その瞬間からその中に飛び込めば良かっただけなのだ
        そしたらその瞬間から人生は始まる---残り時間は問題では無い

  ---溜め込み、詰め込み、延期し、躊躇ったことが「愛せない」原因だからだ!!

  彼、ジョブスはたまたま死期をハッキリ自覚出来る状況にあったと言うだけで
  誰もが、実際には死刑宣告を受けていて、なおかつその執行の日は知らされていない
  もし、「残り時間」が愛にとって問題なのならば、誰にも愛することなど不可能だ


「無」にしても「愛」にしても、「獲得」したり「放棄」したり・・・そんな事が出来るわけない
・・・「非在」なのだから  ・・・時間の存在しないゼロ次元の現象なのだから

「デファイン=定義する」という言葉は「見い出す」とも翻訳出来る

全体から切り出され、「見い出される」ことによってのみ「定義」は可能で、
「全体と溶け合った」ものは、もう定義のしようが無い・・・  それは「不老不死」「永遠不滅」

・・・それがすべてのものの〝本性〟だ、 ・・・〝それ〟はもう、個別に識別は出来ない

  たとえば人間の肉体にせよ、一体どこまでが〝人体〟で、どこからが〝環境〟だろうか?
                どこからどこまでが〝空気〟? どこからどこまでが〝食べ物〟?

                  ・・・皮膚は絶対的な境界ではない  明確な境界線は引けない

         全ては相互依存しており、その境界線は曖昧なグラデェーション

         分割分類、成分抽出、定義や論理化、体系化という野心をすべてギブアップして
                       〝無〟であるとき、すでにすべてが相互に溶け合っている

                    なぜなら人間の「全てを支配したい野心」意外の
                           「存在するすべて」は・・・・
                           昔も、今も、これからも・・・・、
                     ずっとそうだし、それ以外はあり得ない、あり様はないからだ

                           だから、愛とは「無という本性」への帰還の衝動だ

宮井陸郎 シャンタン愛とは全体とひとつになることへの深い衝動だ。愛とは、存在の中に根を張ることだ。
質問
愛とは何ですか?
なぜ、私は愛を恐れているのでしょう?
なぜ、愛は耐えられない痛みのような感じがするのでしょう?
osho
あなたは「愛とは何ですか?」と尋ねている。
それは、全体とひとつになることへの深い衝動だ。
我と汝が、ひとつの統合の中に溶け去ることへの深い衝動だ。
私たちが自分自身の源泉から分たれている為に、
その分たれていることから、全体の中に還りたい、
全体とひとつになりたいという欲望が湧き上がってくる。
それが愛だ。
もし木を土から引き抜いたら、もしそれを根こそぎにしたら、その木は
土の中に還って根づきたいという、すさまじい欲望を感じるだろう。
なぜなら、それが木の本当の生だったからだ。
今や、それは死につつある。
分たれていては、その木は存在出来ない。
それは大地の中に、大地とともに、大地を通して存在しなければならない。
それが、愛とは何かだ。
あなたのエゴは、あなたとあなたの大地・・
全体との間の障壁になっている。
人間は窒息している。
呼吸出来ない。
自分の根を失っている。
人間は、もはや栄養をもらっていない。
愛とは、栄養を求める欲望だ。
愛とは、存在の中に根を張ることだ。
そして、もしあなたが反対の極に陥れば、その現象はより易しい。
だからこそ、男性は女性に惹きつけられ、女性は男性に惹きつけられる。
男性は女性を通して自分の大地を見つけることが出来る。
女性を通して再び大地に根づくことが出来る。
そして女性は、男性を通して大地に根づくことが出来る。
彼らはお互いに補い合っている。
全体でありたいという、死に物狂いの要求の中で、男性だけでは半分だ。
女性だけでは半分だ。
これらふたつの半分が出会い、混じり合い、溶け合う時
初めて人は根づき、地についた感じがする。
実存の中に大いなる歓びが湧き上がる。
あなたが根づくのは、女性の中だけではない。
女性を通して、あなたは神に根づく。
女性はただの扉だ。
男性はただの扉だ。
男性と女性は神への扉だ。
愛を求める欲望は、神を求める欲望だ。
あなたはそれを理解しているかもしれないし、
理解していないかもしれないが、
愛を求める欲望は、神の存在を本当に立証する。
他にはどんな証明もない。
人間は愛するがゆえに、神は存在する。
人間は愛なしでは生きられないがゆえに、神は存在する。
愛したいという衝動は、単にひとりでは
私たちは苦しみ、そして死ぬ、ということのあらわれだ。
一緒であれば、私たちは成長する。
栄養を与えられ、満たされ、満足する。
あなたは尋ねている。
「愛とは何ですか?なぜ、私は愛をとても恐れているのでしょう?」
そしてだからこそ、人は愛を恐れもする・・
なぜなら、あなたが女性の中に入り込む瞬間、
あなたは自分のエゴを失い、女性は男性の中に入り込む瞬間、
彼女のエゴを失うからだ。
さて、このことが理解されなければならない。
あなたは、あなた自身を失う時にのみ全体に根づくことが出来る。
他に方法はない。
あなたは全体に惹きつけられている。
なぜならあなたは、栄養をもらっていないと感じているからだ。
そして、全体の中に消え去る瞬間が来ると、
あなたはとても恐くなり始める。
非常な恐怖が湧き上がる。
なぜなら、あなたはあなた自身を失おうとしているからだ。
あなたは尻込みする。
これがディレンマだ。
人間はそれぞれみな、それに直面し、それと出会い、
それを通過し、それを理解し、そしてそれを超越しなければならない。
あなたは、両方のものが、同じものから
生じていることを理解しなければならない。
あなたは、消え去ることは美しいだろうと感じる・・
心配もなく、不安もなく、責任もなく。
あなたは樹々がそうであるように、
星々がそうであるように、全体の部分となるだろう。
そう考えるだけでも素敵だ!
それはいくつかの扉を開ける。
あなたの実存への神秘的な扉を。
それは詩に誕生を与える。
それはロマンティックだ。
しかし、あなたが実際にその中に入ってゆく時、
その時に恐れが湧き上がる。
「私は消え去ろうとしている。が、
次に何が起こるか、誰に分かるだろう?」
それは、砂漠に到達しようとしている川のようだ。
砂漠のささやきを聞きながら・・
ためらいがちに、川は砂漠を越えて行きたい。
大海の探究に向かいたい。
欲望がそこにあり「私の宿命は越えて行くことだ」という
微妙な感覚と確信、そして信念がそこにあるのを彼は感じる。
明白な理由は何ひとつ与えられない。
だが、そこには内なる信念がある。
「私はここで終わるべきではない。
私は、何かもっと大きなものを求める探求に進まなければならない」
奥深くで何かが言う。
「やってみろ!そして、この砂漠を超越するんだ」
すると、砂漠が言う。
「私の言うことを聴きなさい。唯一の方法は、風の中に蒸発することです。
彼らがあなたを連れて行くでしょう。
彼らがあなたを砂漠の向こうに連れて行くでしょう」
川は、砂漠を越えて行きたい。
だが、疑問が生じるのはとても自然なことだ。
「そうだとしても、私が再び川になることを
風が許してくれるという証拠や保証は?
ひとたび消え去ってしまえば、私にはどんなコントロールも出来なくなる。
そうだとしたら、私が再び同じ姿の、同じ名前の、
同じ身体の、同じ川になるだろうという保証は何か?
誰に分かるのか?
それに、ひとたび私が風に明け渡してしまった後で、
彼らが再び私に別れることを許してくれるなんて、
信頼のしようがあるだろうか?」
これが愛の恐怖だ。
あなたは分かっている。
愛なしでは、そこに何の歓びもないことを、
愛なしでは何の生もないことを、愛なしでは何か未知のものに飢え、
満たされず、虚しいことを確信している。
あなたは空虚だ。
何も持っていない。
あなたは、中味が何もない器にすぎない。
あなたはその虚ろであること、空っぽであることを感じ、
その惨めさを感じる。
そして、そこに自分を満たすことの出来る道があることを確信している。
しかし、愛に近づくと非常な恐怖が湧き上がる。
疑いが湧き上がる。
もしくつろいで、本当にその中へ入ったら、
自分は再び帰って来ることが出来るだろうか?
自分のアイディンティティ(存在証明)や
人格を守ることが出来るだろうか?
そんな危険を冒す価値があるだろうか?
そしてマインドは、そんな危険は冒すまいと決める。
なぜなら、少なくとも、あなたはいるからだ・・
栄養不足で、満たされず、飢えていて、惨めだ・・
だが、少なくとも、あなたはいる。
ある愛の中に消え去れば、誰に分かる?
あなたが消え去ることになるのだ。
そうだとしたら、そこに喜びがあり、そこに至福があり、
そこに神がいるという保証は何なのか?
それは、種子が土の中へと死んで行くときに感じるのと同じ恐怖だ。
それは死だ。
そして種子には、死から生が生じるだろうとは想像もつかない。