私たちは
「覚者とおぼしき人達は、一般の人と全く違った光景を見ている」と想像していないだろうか?

  ある意味ではたぶん確かに「そのとおり」だろうと思う
  でもそれは「我々と物理的に全く違うものを見ている」のでは無いと思う

「見ているもの」は同じでも「見る姿勢」が、たぶんまるで違うのだ

よく「覚醒した人は夢を見ない」と聞く・・・  しかし、それは何故かと言えば、
覚者にとって「全ては夢」だという認識が有るからじゃ無いだろうか?

瞑想などを試みている人なら、皆体験しているだろうが
「気付き、注意深さの中に居よう・・・」とする「努力しない努力」を試みて
誰にでもすぐに分かること・・・それは、「オーゴッド!お手上げです」ということだ


たった一分間でいいよ・・・
 60秒だけでも自己留意に連続して留まれるなら、
       わたしはあなたをブッダにしてあげられる

 OSHO

「努力しない努力」を試みると分かる・・・  私たちが如何に散漫なのか?
マインドは一瞬たりともジッとはしていない・・・

「物事を〝変えよう〟とする前に大事なのは、まず〝知る〟ことだ・・・」

OSHO
私たちのマインドは、
じっくり〝知ろう〟とする前に、何故か?ジタバタと〝変えよう〟とかけずり回っている・・・

・・・つまり覚者とは、「完全に立ち留まったひと」のことだ
わたしたちは常にフラフラと千鳥足で歩いている・・・アッチにぶつかり、こっちによろめく・・・
そして奥底に揺らめく恐怖で常にチワワのように、ぶるぶる震えている

それは「夢を見ているから」だ・・・
しかし、では「覚者」とは、「夢から覚めた」と言うことなのか?

 ・・・もしそうならば

 ・・・・「夢から覚めた」ならば、それは私たちのかつて見たことの無い別世界なのか?

ある意味では「そのとおり」なのだろうけれど、私たちはとんでもない誤解をしているのかも知れない

かつての記事にも書いたけれど・・・
十二因縁の「カルマの出発点」とは「無明」だというが、「無明とは無知」のことなのか?
それはどう考えても違うと思う・・・

逆を言えば、ブッダとは「全知全能なのか?」ということになるが、
それはキリスト教的な創造神のイメージで、五井野正も結局のところその概念に取り憑かれていた

わたしは悟っています
しかし軽々しく悟りが得られると思わないで欲しい
悟りとは、無限に長い、気の遠くなるような時間を掛けてやっと得られるものなのですから

五井野正:著
法華経三部経大系総論、冒頭より
悟りに、無限に長い、気の遠くなるような時間を掛けてやっと得られるものだというのは本当です

でも、私は言いましょう、皆さんはすぐにでも悟れるかも知れません
なぜなら皆さんはすでに、無限とも思われる長い時を修行してきたからです

シュリ・バガヴァン

「無明とは『無知の知(不可知)』に対する無自覚ではないか?」  ・・・そう私は思う

だから、「結局は何も知り得ない」という結論に達するのには、
とてつもなく、気が遠くなる程の探求の時間が必要なのも、当然だと言える・・・

「外側には本質的なことは何もない」という希な結論に達したものだけが、
真に内面の探求に向かうことが出来る・・・

OSHO

  ・・・つまりこの自覚が徹底した時、

  ・・・つまり「オーゴッド!お手上げです」という自覚が全身を刺し貫いた時、
          もう瞬時にエンライトメント出来る可能性が、有り得ると思う・・・

・・・何を言いたいのかというと
   これは我ながら結構大胆な仮説だと思いますが・・・
   「気付き続けて、何かがスゲー事が起きる???」というワクテカそのものが
   「方便なのかも知れない」っという可能性だ・・・

    つまりもっと突っ込んで言ってしまえば、
    「周囲のすべてに対してずっと気付き続けるというのは『無理ゲー』である」
という気付きだ


  ・・・このことを別の表現のしかたをすれば
    「既知と思っていたことの丸ごとすべてが、実は夢だった」という自覚だ
    ・・・そして、圧倒され、ガチガチで腐った過去から来る世界観はすべて崩壊し、
      わたしたちは「ただ立ちすくんで、押し黙る」以外、なすすべを失う  ・・・それが〝覚醒〟

                つまりそれは「別の世界がある」という意味ではない

        「お手上げ=ギブ・アップ」とは、「知りませんでした」という反省ではない
         「知り得ないのだ!」という驚きであり、「無明」の自覚であり、探求の終わりだ
          「知るべき事など何も無い」という知ったかぶり、傲慢じゃない
           「もう知り尽くした」という神様トリップでも超人的な特権でもゴールでもない

        「努力しない努力」とは
         「地球上の地平線の果てを探して直進しても切りが無い」
          と言うことに気が付くこと、・・・それが「ギブアップ」であり

         「地平線の彼方」とは、実は「たったいま立っているここの事だった・・・」という
         ジョークに気が付くことだ

                「いままでの苦闘とはいったい何だったのか?」

    気の遠くなるような魂の転生の宇宙的な歴史で、憧れの目的地は常に足元にあった
    そしてそれを見えなくさせていた原因は「地平線の果て」探しをしている自分自身だった!

          瞬間瞬間、最大限の気遣いと愛情を込めて気付いている状態・・・・
              「マルの中のチェックマーク」
no title

          ・・・その状態自体が「わたし」であり、それ以外はすべて「知り得ない」

               ・・・そこで人は「無明」から爆笑の光の中へと飛び込んでいく
マーヤ(幻想)だったのはこの世界ではなく、あなたという自意識なのだ

OSHO

    「すべてのすべてが夢」であるという意味は
    「現実など何も無い」と言うことではない
    「現実と夢とは、そもそも分離出来ない」という方がより正確な真相だろう

    そして
    「すべてのすべてが夢」であるという意味は
    「観察者という分離した自意識そのものが夢であった」という自覚と直結する

    なぜならば、アイデンティティー=自意識とは
     周囲との関係性によって〝確証されている〟過去の集積だからだ

    もしあなたが生まれながらにして、五感の全てを持っていない
    「呼吸するだけ」の芋虫のような存在だったなら、どうやって自意識を持てただろう?

    そもそも五感無しで「他者」の存在を認識出来ただろうか?

    私たちはそれをイメージすると「無間地獄」なのだが
    胎児とは実際それに近い状態で羊水の中に浮かんでいるが実際は天国の住民だ

    この肉体の五感に根ざした自意識もまた、世界の森羅万象と不可分な
   〝夢(マーヤー)の一部〟に過ぎないならば
    どうして自分から客体視して世界を指さし、「これらは夢だ」なんて言えるだろうか?
    どうしてそれらの夢の中であなたの意思や思考や感情だけを例外に出来るだろう?

      「自意識を筆頭にすべてが夢だ」「現実と呼んでいるものさえ、すべて夢だ」
                           という自覚こそが「覚醒」ではないか?

     斯くして覚者は、完全に立ち止まる、完全に押し黙る
     彼は「世界との押しくらまんじゅうごっこ」をやめる

     でもそれは「全知全能者」へと変身したからではない・・・

     ・・・ただただ、「何一つ知り得ない」し、また「知る必要が無い」と「知った」だけだ

「根源的な疑問に対する、回答など無い・・・」それが釈迦の悟りでした

シュリ・バガヴァン
「神の究極的な目的はあるか?」だって?
そんなものあるわけはない

だって、なにかそれらしき答えが出てきたら、
「じゃあその目的は何?」と質問をすぐさま付け足せるからね(笑)

OSHO

          だから、釈迦はもう歩き続けるのを止めただけなのだ
                激しく苦行して問い続けることをやめた・・・・

           それはおのれの「無知の知」に完全に寛いだから・・・

私たちはブッダと聞くと
「私たち凡人とは全く隔絶した超人」というイメージに取り憑かれていないだろうか?

しかし、
グラマーな美女をみて、ブッダが「あなたはわたしが作り上げた夢に過ぎない」と言いつつ
その美女のおっぱいを鷲掴みにしたなら、たぶんそのブッダはグーで殴られるだろう


OSHO_ I Am a Spiritual Playboy 投稿者 maneel-katal