その1、映画「12人の怒れる男(1957) 」

ニコニコでの紹介文より
既に法廷劇の代名詞となって久しい、アメリカ映画史に輝く傑作ドラマ。元々は高い評価を受けたTV作品で、その脚本・演出コンビによる映画版だが、そのい かにもTV向­きの密室劇を上手くスクリーンに転化させた手腕は見事の一言。17歳の少年が起こした殺人事件に関する陪審員の討論が始まったが、誰が見て も有罪と思えたその状況下で、ひとりの陪審員が無罪を主張した事から物語は動き始める……。

1/3 [洋画] 死刑求刑が無罪になったと聞いてうpしますた(1957字幕).

2/3 [洋画] 死刑求刑が無罪になったと聞いてうpしますた(1957字幕)

3/3 [洋画] 死刑求刑が無罪になったと聞いてうpしますた(1957字幕)

べっちーちゃん (苫米地英人氏・以後べっちーちゃんということでヨロシク) が
多用していらっしゃる心理学用語、「ストコーマ(盲点)を外す重要性」って、
この映画のことですね?解ります!(*・ω・)(*-ω-)うんうん

主人公のヘンリーフォンダが扮する建築家は、水瓶座的な役割。
ひとりの少年を裁く上で、ありとあらゆる可能性の見落としがないか?ストコーマが無いか?
  それを真剣に検討することが、わたしたち12人の使命ではないか?っと他の11人に反逆する。

それを受けて一人の老人が加勢する。 彼は魚座的な役割。
 そしてこの老人がこの映画の最後にも決め手となるストコーマを発見をする。

このふたりにあくまでも対立する(有罪)の立場でありながらも、主人公に匹敵するほど
冷静な態度で議論を身のあるものにしていくメガネの紳士は、たぶん山羊座的な役割

父親殺しの容疑被疑者の青年に対し、おのれの親子関係を投影して憎しみを募らせ
最後まで頑強に有罪を言い張る男は、まあ、獅子座さん(のお役目)と見て間違いなさそう。

   山本リンダじゃないけれど、「もうどおにもとまらない」んでしょうねえ・・・こう言う人って・・・


12という数字は、イエスの弟子の人数であり、占星術の12サインであり、時計の12でもある
そして法華経の12因縁論をも連想する。 

 12とは堂々巡り、カルマの数字。時間という迷宮。
原因と結果が自分の尻尾を咥えるウロボノスのヘビのようにぐるりと一周してしまう。

つまり、360度の全方位のFAIRな視点で見ると、結果はゼロになる。(360度=原点回帰)

人は人を、安易に裁くことは出来ない それが無知の知であり、人知の限界である。


もちろん短絡的な視点で限定的な価値判断に委ねるならば、白黒はさっさとつくだろう。

そうして、わたしたちは犯罪者(であろう)人々を縛り首にしてきた。 電気椅子で焼き殺してきた。
社会的正義の名の下で、  法と秩序の権威の元で・・・・

その隠れた本質はバビロニアのハムラビ法典「眼には眼を、歯には歯を」の精神。
つまり、イコールの精神だ。  でもこれを精神と呼べるのか?、  たんなる
「公式の復讐」である。  命のない機械的な、物理的な作用と反作用の法則を
人間の営みに当てはめてみたした~~というわけだ。


まあ、人間社会なんて、そう言う点ではまだまだ野蛮なのだ。 やむを得ないところもあるだろう。
被害者の家族の心情を思えば、・・・・  なるほどそうかもしれない。

ただ、ひとつだけ注文を付けるなら、
そんな「被害者の心情」や「復讐心」を真のひとの精神と呼んでいいのだろうか?
それは人間の心理作用とは呼べるが、本当に万物の霊長?に宿る宇宙的な「こころ」とよべるのか?

宇野正美氏から言わせれば、「そんな女々しい事を言って、世の中の“秩序”はどうなってしまうのだ?」
っと言うお叱りになるかも知れない。

へそ曲がりの不可知論者?  左翼的な人権主義者?  単なる弱腰?  無責任な優柔不断?

映画の中で主人公も、自分たちが本当に起きた事実に反する結果に辿り着いてしまうかも
知れない危険性を認めている。

「私たちは、ひょっとしたらひとりの犯罪者をみすみす野に放つことになるかも知れない・・・」


   でも、  決定的な証拠も無しに「疑わしきを罰する」社会を容認したならば・・・・?

   じゃあ、  有罪は確定であったとしても、その刑量は、本当に適切なのか?

悲しいことに、私たちのほとんどは心眼が開いていない。

オモテに現れたモノしか見えない。裁きの結果しか求めない。
原因を掘り下げていく忍耐強さも、相手の立場になって観察していく愛情深さも無いのだ。

   ※ 心眼(第三の眼)とは、超能力でも霊視能力でもない
      単に曇り無い目で、辛抱つよく、ひたむきに見つめていくことで、
       おのずと行間が見えてくる、背景が浮かんでくると言うことなのだ。

それゆえに、本当の原因の原因が何か見えず、ついにはそれを追求することさえ面倒くさくなり
ついつい、眼に見える “スカッとした結果” を追い求めてしまう。  それでぐっすり眠って忘れてしまう。



 「だれかこの女を石打にする罪なき者はいるか?」

マリアをかばってイエスは群集の中のひとりひとりに石を突きつけた。

これが13人目の男である。

13人目の男とは、群集から一線を引いた独立個人だ。
死に神を背中に背負った男だ。


群集は往々にして、暴徒であり、無責任だ。
でも、個人として責任を問われると逃げ出す。

かれらはモーゼの様な指導者は歓迎する。  紅海を分けるようなスペクタクルは大好きだ。

でも帰ったら、羊を数え、眠り、忘れる。

そして、個人であることを思い出させるようなイエスの様な男は、嫌いだ。
自分たちの罪をぜ~~んぶおっかぶせて、十字架に掛け、そして、
自分たちが安眠出来る為の宗教といういけにえの祭壇に彼を祭り上げ、安心する。

人々の覚醒を促そうとしたイエスは、皮肉なことにこの二千年間、
西欧社会の睡眠薬、罪悪感という魂の毒薬と、その痛み止めとして使われてきた。


    ああ、確かに私もいつかは死ぬ。でもイエス様が守ってくれれば
    それはきっと明日じゃないよ!  だから安心して眠ろう。


だから、今日も人々は法廷の傍聴席に座る。  知的好奇心で、......
「イエス様を信仰するわれらは、常に神と共に裁く側で~す!」....っというわけだ。



911のあと、

グラウンドゼロの前で、神と共にあるアメリカ人達はイスラムへの復讐を誓った。
「右の頬を打たれたら、左の頬を出せ」という言葉は、・・・まあどっかに置いておいて、

グラウンドゼロ、それは新しいパールハーバーだ。

実際、その地がなぜゼロと名付けられたかと言えば、
ここから無限に復讐してやるという意味だ。 

もしそこで失われた人命が問題ならば、その地はゼロではないはずだ。

つまり、倒壊したWTCという建物 (権威、富、繁栄の象徴) が無くなったことに対する
ゼロを意味する。    .......聖書の民であるはずなのに、.......

かれらはなぜあのタワーがバベルの塔だったと気がつかなかったのか?

   ・・・・これぞ、まさしく都合の悪いものが見えない、スコトーマだ。

貴様等こそ悪魔だ

もし、
ゼロが、  ニュートラルを意味するならば、
解決した   “チャラになった” ことを意味するならば、
日本人の犠牲者も含めた911の多くの犠牲者は成仏出来る。

本当の意味でのグラウンドゼロとは、全てが終わった場所であり、
そして新生の場所のハズだ。

そこには花々が咲き乱れ、そこから人々の笑いとダンスと歌が溢れてくるはずだ。

違う、彼らが名付けたグラウンドゼロとは、無限の復讐、無限の憎しみ。
罪なきイラク人を10万人以上血祭りに上げてなお、三歩歩けば、そんなことは忘れて、
まだ虚しい、血のあがないが欲しいと言う意味のゼロなのだ。



「12人の怒れる男 」
もう、この様な、公心を訴える映画を、アメリカが作ることはないのだろうか?