OSHO
サマサティ: 最後の講話
より、
一部抜粋・・・
何時もどれほど
あなたの表現の美しさに打たれているか!?、
私はことばで言い表すことができません
        ――あなたのことば、あなたの身振り、・・・

そして今は特に、あなたの絵の中のそれに打たれます。
 何も描いてない紙の前に座っているとき、
 あなたには正確には何が起きるのですか?
 人は光明を得てからも、芸術的な創造に対する衝動を
 持つものなのでしょうか?

 禅と芸術と創造性について私たちに話していただけますか?

 禅はあなたたちのどんなものも妨げない。
それはその人のなかに潜在しているあらゆるものを開く。

その人が画家になる潜在能力を持っているなら、
禅はそれを開く――その人がそれに気づいていないとしても。

詩人になるべき潜在能力があれば、禅はその能力を開く。
すると初めて、その人は散文ではなく詩で考え始めている。

 音楽や、踊り、あるいは科学的な探求についても
 同じことが言える。

どんなたぐいのオリジナルな経験でも、禅はあなたに許す。
それはどんなものも妨げない。

禅は肯定的な、生におけるもっとも肯定的な経験だ。
それは自分のなかに隠れているものすべてに、
それまで覗いてみたこともなかったような
あらゆるものに気づかせてくれる。

それはただ気づかせてくれるだけでなく、
その潜在能力を探求するようにもしてくれる。

 禅は渇いた、砂漠のような経験ではない。
 それは非常に豊潤な美しい庭だ
 ――突如として花開き始めるあなたの〈生〉のなかの泉だ。
 
 自分がそれに気づいたとき何が起きるかはけしてわかからない。
 それはこちら側の決定ではない、それは選択ではない。
 それは無選択の素朴な経験だ
 ――あなたはある方向に向かって動き始める。
 と、突然その方向がじつに命にあふれ、
 あらゆるものをそれに捧げることができるほど
 魅力のあるものになる。

 禅はじつに創造的な経験だ。
 それは他の宗教には似ていない。
 宗教はすべて非創造的だ。
 実際、いわゆる聖者は何もしない。
 彼らは大詩人でもなく、偉大なダンサーでもなく、大音楽家でもない。
 だが真の、本物の聖者、
 そういう人はいわゆる聖者のなかにあってごく稀にしかいないが‥‥。

 つい先日、今の法王がこの四年間で二千人以上の聖職者を送り出した
 という情報を受け取った。
 免許を与えたのだ。
 
 彼は寄付できる人たち全員に許可証を与え続けている。
 今ではカトリック教会は世界最大の銀行を所有している
 ――バンク・オブ・アメリカだ。
 
 カトリック教会は世界最大の土地を所有している
 ――ほかのどの国の国有地よりも多い。
 
 過去における方法は、戦争、つまり人殺しだった。
 何千何万という人びとが、
 その財産を取り上げるだけのために殺された。
 
 あるいはカトリック教徒になることを強いられた。
 カトリックの皇帝コンスタンチンひとりだけで、
 たった一日で一万人の人間を殺した。
 彼はカトリック教徒ではない者の集会を
 ローマの大オーディトリウムで行い、
 「我われはローマにキリスト教徒以外の者を望まない」
 と言って、軍隊に全員射殺するように命じた。
 
 彼はイタリア全土にキリスト教徒になるように強制した
 ‥‥まさに銃口によってだ。
 
 キリスト教の全歴史は戦争以外のものではない
 ――殺戮と暴力の歴史だ。
 
 またほかの宗教についても、劣らずに同じことが言える。
 それらは破壊的だ。
 いろいろな意味において破壊的だ。
 人びとを疚(やま)しくすることによって壊し、
 罪人にすることによって壊し、
 この世と喜びをすべて放棄させ、
 無用な苦行に入らせることで破壊する。
 だが苦行に入る者は尊敬された。
 
 ところが、その苦行は病と罪の意識以外
 何ひとつこの世に貢献するものを持っていない。
 
 あなたたちの聖者はみな、
 一致団結してあなたたちに疚しさを持たせようとする。

 かくて一方では彼らはこのように人類を破壊し、
 もう一方では自分の信徒に属さないといっては人びとを殺している。
 彼らは――剣によって、あるいはパンによって――人びとに強いる。
 過去においては、彼らは剣を持って来たものだが、
 今ではパンを持ってやってくる。
 貧しい者たちはつねに抵抗力を持たず、
 力によって、あるいは買収によって、改宗させられてきた。
 
 だがこんなものはまったく宗教性ではない。
 これは政治そのものだ。

 禅は本物の宗教的経験だ。
 それが本物であるのは、それが人間のなかに創造性を開発するからだ。
 
 禅の導師は、誰も殺したことなどない。
 彼らは誰にも自分の道を強制したりしない。
 逆に、こちらから彼らの所に行かなければならない。
 しかも受け入れてもらうのは非常にむずかしいことだった。
 導師たちは非常に人を選ぶ。
 こちらからこの上ない欲望と憧れを示さないかぎり、
 彼らが人を招くことはない。
 
 改宗させるなどということは、問題にもならない。
 
 あなたが井戸に行かなければならない。
 井戸があなたの所には来ない。
 井戸はあなたを招くことすらしない。
 それはただそこにあって待っているだけだ。