やはり多くの仏典の中において法華経は最も重要なようだ
私がざっと法華経の入門書を読んでまず感じたのは

    「謙虚さ(不可知論)の重要性」

それと

    「すべてのすべての物語とは〝方便(たとえ話、真実を示す指)〟なんだよ」

ということだ・・・・・

    つまり
     「全ての〝確かな〟現実、それ自体が夢なのだ」と気付くことが覚醒だ
      「夢の中で『これは夢だ』と気が付く」こと、・・・・それが即ち覚醒、 というわけだ

                    何と言う壮大な、無限のパラドックスだろうか?

「夢の世界から脱出したい!覚醒したい!」という格闘そのものこそが悪夢だった・・・
何て「苦く悲惨な気の遠くなるようなジョーク」なのだろう?

〝覚醒〟は私たちをどこにも・・・・   アナザーワールドにつれていってはくれないのだ

 そもそも夢と現実との間に引いている私たちの境界線(定義)それ自体が無根拠なのだ

    わたしたちは「色つき」の、「タンスの角に足の小指をぶっつけると痛い」夢を見ている(笑)
    ハードディスクが容量不足だと、ハードディスクを換装しなければいけない・・・
    「パソコンやインターネットがある」世界の夢を見ている

       「意識的な、夢の時間の始まりです・・・・」  by バシャール


「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<7>

あれ程までに覚醒の必要性を説き、
眠りから目覚めのために働き続けた
私達の愛するマスター、親愛なる友人OSHO・・・・

彼は今

   「あなたがたに私の『夢』を残していくよ」

  という最後の言葉を残して、存在の中に溶け去って行った。

覚者の夢というパラドックスに、
私はOSHOらしい最後の茶目っ気を感じるとともに・・・

    グルと弟子とのマスター・ゲーム
                 という最後の悪夢

        ・・・・から目を覚ます時が来たことを感じた。

・・・・・中略

一方、明治、大正、昭和を駆け抜けた
日本の巨大な神秘家・出口王仁三郎は・・・

  「日本は世界の雛型であり、
   大本教に現われた自分は
   いずれやってくる弥勒菩薩の雛型で、
   まことの人が美濃か尾張の国の中に現れたら大本も終りである」、

という遺書を残している。

また水墨画「弥勒神真像」も残しているが、
それは一般的に弥勒像に見られるような女性形ではなく、
長く髭をたくわえた禿頭の達磨像であり、
その人は56才と7ヵ月以から本当の仕事をするであろうと予言している。

 美濃・尾張と言えば現在の岐阜や愛知あたりになるが、
これを国魂学にしたがって世界地図に伸ばしてみると
インド大陸西北部に当たり、OSHOの出身地のグジャラートや
プーナもその一帯に入り、また美濃・尾張(みのおわり)とは
言霊(ことだま)で言えば「身の終り」であり、その肉体の終りから
新しい次元が始まる、と解釈することが出来るであろう。

OSHOは56才と7ヵ月で尾張・名古屋の展覧会に現われ、
伊勢に伝わることによって日本の神道に深く潜行し
最後の本当の姿を見せ始めた。

「弥勒神真像」を実際に見た人によれば
それはOSHOそっくりだということだ。

弥勒菩薩・マイ トレーヤーは友人を意味し、
友情のような親しみの中で、生きとし生きる
あらゆるものを救うためにやって来るという。  

1931年11月インドに転生して最後の肉体を持ったOSHOは
88年8月日本に渡り、やがて「みのおわり」に肉体を離れる
ことによって、多くの友人達の中に溶け込み、究極の旅を
完成したのである。



「湧き出ずるロータス・スートラ」私の見た日本とOSHOの出会い1992<8>

 英語でローソクを現わすキャンドルは
もともとサンスクリットで月を表わすチャンドラであり、
これがヒンドゥやインドゥに変化してインドとなり、
教典において月を象徴とする精神的民族として
月氏国を表記されている。

  「OSHO」とは
   日本語の 「和尚」であり、
    アメリカの詩人ホイットマンの造語
     Oceaning(海に溶け去る)から、

         〝海に溶け去った人〟
            の意味も込められているが、

   本命、チャンドラ・ラジニーシ・モハンが示すとおり、
   月の神秘的な精神性を象徴しているのである。

 この経緯を見て、
   「今こそ日本神話の中のツクヨミを呼び戻すことが
    日本とOSHOのスピリットを繋げることになるのだ」

という直感から、
京都の翻訳家Swモンジュは
90年夏にミニコミ「ツクヨミ」プロジェクトの活動を開始している。

・・・・・中略

 あらゆる精神世界に言及したOSHOは特に仏教に多く触れ、
般若心経をハート・ スートラ、
金剛経をダイヤモンド・スートラとして語り、
古びた教典に全く新しいエネルギーをそそぎ込んだ。

最晩年は
法華経をロータス・スートラとして語る準備をしていたが、
幸か不幸か、大いなる存在は彼にその時間を与えはしなかった。

 OSHOが残した夢はもはや言葉の次元を超え、
インスピレーションとなって私達を激しく優しく誘い続けている。

私達に溶け込んだ彼のエネルギーは、
全く新しいロータス・スートラとなり、
地球のスピリットとなって湧き出すことだろう。

 環境運動も国連もノーベル賞も近代オリンピックも、
全てユダヤの秘密結社フリー・ メイソンの陰謀である
とする人々もあるが、大和魂もユダヤ・マインドも
過去の狭い条件付けを受けない地球人としての
ニューマンの登場によって受け入れられ、
瞑想によって洗い流されて行くことだろう。

日本とOSHOの出会いが生み出すもの・・・・・
それは
人類一人一人が覚醒し、
56億7千万人のマイトレーヤー達となって作る、黄金の未来である。