OSHOは私の目撃した限りにおいても二回、同じ質問を受けている・・・

   「OSHO、〝無〟とは『何も無い』ということでしょうか?」

これに対してOSHOは二回とも同じ回答をしていた

   「いや、〝無〟とは〝ナッシング(nothing)〟ではない 〝ノット・シング(not thing)〟だよ」

私は一旦このOSHOの回答を疑ってみた

つまり、映画「アルタード・ステイツ」で、主人公が最後に観客に提示した回答である
  「万物の始原、宇宙の起源は〝血も凍るような無〟だった・・・」
ある意味、この回答も正しいと思う

・・・私たち人類は物理学やその他の探求の弓矢によって、森羅万象の根底をずっと探してきた
 ・・・私たちが探し続けた答えとは「造物主=GOD」だったのか?神との面会だったのか?

                  ユダヤ教徒たちは大きな二枚の石版を抱えて何千年も探し回った
「え?神様、無料なんですか?でしたらもう一枚下さい!!」 
斯くして、モーゼの十戒は二枚の石版になったわけだ

OSHOの講話の中のジョークより

しかし重大な問題がある
もし神と出会ったとしても、彼を神だとどうやって見分けるのだろうか?
・・・つまりサニワの問題だった

もし人間にサニワが可能であったなら・・・、
つまり
「オレ達人間は、神か?神でないかの正しい基準をすでに持ってるぜぇ~」
という、とんでもない傲慢を抱えていることになる・・・
これが〝神の探求〟の根底的に抱える盲点

ここで私たちは外向きの探求を断念せざるを得なくなる
       ・・・それが真摯さというものではないだろうか?

  そしてこれが、わたしが「不可知論(真理を〝わたし〟は知り得ない)」を支持する理由だ
つまりここで、「全宇宙を探求しても宇宙の根底は解明出来ない」という当然な結論に達する

        なにがしかの憶測、仮説なら可能だろう・・・
        しかしその範疇を出て、決定的な結論を得ることはないだろう・・・

 少し長くなったけれど、これが
  「万物の始原、宇宙の起源は〝血も凍るような無〟だった・・・」
というのも、ある意味では「その通りだろう」と私が支持する根拠だ
「コレこそが大宇宙の根底的な真理だ!」っと、
 私たちは(鬼の首を取ったように)勝ち誇る日は決して来ない・・・
  究極的真理とは人間ごきが〝解明する〟事などけっして出来はしないのだ・・・

映画の中の台詞では、ウィリアム・ハート演じる映画の主人公、ジョセッペ教授は
〝血も凍るような無〟のことを 「simply nothing」 と怯えるように発音している

・・・「すべては〝無底〟だった」という意味だ
・・・わたしは
   これはプログラムデーター用語の〝NULL〟で表現出来るのではないか?
と仮説を立てた

  ・・・しかしそれはやはり間違いだったと思う
     なぜなら、〝NULL〟ですら、定義を受けた、ただのデーター表現に過ぎない

ちょっとまどろっこしい硬い表現になってしまったが、
OSHOはこれに関して実に砕けた面白い表現をしている

つまり、
「底なし」であることとは、「血も凍るような・・・・」ことなのではなく
「すべての存在は狭く堅い人間の定義から〝自由で、解放されている〟」ということなのだ

そして、
「宇宙の究極の結論、神の究極の目的があるか?それは何か?」と言うことに関しても
OSHOは茶目っ気たっぷりに答えている
「神に究極の目的はあるか?」だって? ・・・そんなものあるわけない
だって、もしそんなものがあれば、さらに続けて
「じゃあその〝究極の目的〟の〝目的〟って、なあ~に?」
っと質問をいくらでも繰り返せるからさ・・・
・・・そう、ウロボノスのヘビのように堂々巡りだ(笑)

つまり、この宇宙には、究極的な原因など無く、究極的な結論や目的、理想もない
そこには永遠の宇宙的な遊び=リーラだけが存在している

それではなぜ?人間は希望や理想を失ってしまうと、失意に打ちのめされて
首を吊ろうとするのだろうか?

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質問 

親愛なるバガヴァン、私は情熱を全く失いました。

何もしたくありません。

人生に立ち向かうやる気がなく、

スピリチュアルなクラスに耽(ふけ)っています。

目を閉じて瞑想している時にだけ、平和を見つけることができるのです。

親愛なるバガヴァン、この状況に対して、私は何ができるのでしょうか?

私は希望を失っています。

どうか助けてください、バガヴァン。


バガヴァン

あなたは素晴らしい状態にあるのですよ。

多くの偉大な人々が、このフェーズをくぐり抜けているのです。

あなたが、もしマインドのこの状態から逃げずに、

そこに完全に留まれば、偉大なブレイクスルーがあるでしょう。

それが起こるまで、ただ待ちなさい。

何もしようとせずに、ただ待ちなさい。

そこに浸かりきりなさい。

これは誰にでも起こりうる、素晴らしいことなのです。

浸りきりなさい。

そうすればブレイクスルーが起こるでしょう。


わたしたちは断じて(崇高な)希望や理想や目的意識だけは失いたくない!
なぜなら探求することが無いと、すべきことが無いと、退屈、虚しさに襲われてしまうからだ

わたしたち人間は
 常に何かに自分の欲望や不安を・・・
        投影し続けたい、追いかけ回したい、自分に付け加えたい


いつかどこか?
エデンの園のような絶対的に確かな約束の地に辿り着き、永遠の安らぎを得たい、
                 ・・・・・そうでなくてどうして今までの気の遠くなるように
                            永い魂の巡礼が報われるというのだ!?

だから、常に何かを探し、指さし続ける・・・  「どこなんだ?」 「あれか?」 「これか?」 

「〝無〟とは何か?」 考えはじめ、探し始める・・・

        しかし
、               私たちニンゲンは決して〝無〟を知り得はしないだろう!

なぜなら、
物理現象が真空を嫌い、真空があるところ、どこにでも空気や水がすぐさま入り込むように
わたしたちは「未定義な何か?」があることにガマンが出来ない、・・・・必ず〝解明〟しようとする

・・・シロか?クロか? ハッキリさせたい そしてすぐレッテルを貼りたい、 〝定義〟したい

 でも本当は
 〝あなた〟さえそうしなければ〝無〟は至る所にある、・・・すべてが〝無(=定義無し)〟だ
  人間の思考錯誤や、創意工夫によって産み出された〝人工物〟ですらそうだ
  わたしたちは、〝それ〟がなぜ?〝そこ〟に存在するのか?  ・・・誰も分からない

  そして〝わたし〟さえ、指さす努力、〝解明する〟努力、〝定義する〟努力をやめれば、
 〝わたし〟とは即ち〝名無し〟だ、誰でも無くぽつりと宇宙のまっただ中に取り残される

 〝わたし〟は決して宇宙の根底も、〝無我の境地〟も知り得ない

 でも〝わたし〟があらゆる定義付けの努力をやめ、沈黙した時、・・・・
そこにはもう〝わたし〟はいない、  ・・・そのあとには、きっと〝無〟が残っているだろう