はっきりいって「どっちでもいい」ことであれば
強く信じ込む理由なんか無い・・・

  「その答えは〝A〟だよ」と言われれば

      「ふぅ~ん、へ~、そうなんだぁ~」としか思わないハズだ

  「ごめん違った!、それは〝B〟だよ」と言わても、やっぱり

      「ふぅ~ん、へ~、そうなんだぁ~」としか思わないハズだ


しかし何か強い欲望、欲求、焦り、動機があった場合
それに関係する疑問に対しては、わたしたちは曖昧にしておくことは出来ない
シロか?クロか? 右か?左か? ハッキリさせなければ落ち着かないことだろう

本当の真相はどういうことなのか?
  のんびりと自然な成り行きでその結論が出るのを待っていられる人はいないだろう

人が何かを鵜呑みにする、例え証拠不十分でも結論をさっさと出し、断定し、信じ込んでしまう

・・・その背景には必ずなにがしかの〝動機〟がある
   しかしその〝動機〟によって人の眼は曇ってしまう、欲目でものを見てしまう

   一体何かを〝信じ込む〟必要がどこにあるのか?
   見たことも無いことを信じる、ジブンで確認したこともないのに思い込む・・・
   そんな必要がどこにあるだろか?

   それは大概結論を急いでいる時だ

   わたしたちは早く、インスタントに答えが欲しい、「時はカネなり」だからだ
   成功法則ではよく「即決即断」を礼賛する
   確かに人に先んじて、何かビジネスを展開したいならば必要な措置だろう

    「ひと山当てたい」人間にとっては「即決即断」は確かに重要だろう

たとえば「これを信じる事が全人類の存亡に関わるんだ!」という大義を
                       持ち出されることだって有るだろう

でも、そんなに大事なことならば、やっぱり焦って何かを信じ込むのは
                          むしろ無責任というものだろう

しょっちゅう誰かが「てえへんだ!てえへんだ!」と
息せき切ってあなたのところに駆け込んでくるかも知れない
「もう待てない、敵か味方か?信じるか信じないか?どっちかにしろ」っと
あなたに立場の表明を急かすかも知れない、・・・・・つまり「show the Flag」というやつだ
その人はあなたの同意をとりつけて駆けだしたいのだ・・・
       でも心配ない、
       そんなのは相手の都合で言ってるに過ぎない
       そんなのは相手が自分の価値体系にあなたを巻き込もうとしているに過ぎない
       あなたはハナクソをほじってきいていればいい

  相手の言っていることが正論なのか?真実なのか?それすら二次的なことなのだ
  あなたが自分自身を裏切らない、自分自身に素直であることが最も重要なのだ

納得出来たことは「納得出来た」、納得出来なかったことは「納得出来ない」
理解出来たことは「理解出来た」、理解出来なかったことは「理解出来ない」でいいじゃないか?

 ・・・それ以外、一体どうしようがある?
  ・・・嘘をついてでも理解したフリ、納得したフリをするべきだろうか?

 わたしたちは物事の理解を、
 亀のようにワンステップ、ワンステップ、確実に積み重ねていくことをなぜ忌諱するのだろうか?

わたしたちは死ぬまでマークシート上の選択肢に回答し続けなければいけないんだろうか?
わたしたちはいつまで他人の信条によってあちこち引きずり回されなければいけないんだろうか?

    なぜみんなそうするのかといえば
      「競争に勝ちたい」からだ、「人に遅れをとって損をしたくない」からだ
       「残り物にも福がある」かもだなんて、イマドキ誰もそんなのんびりは考えない

     あるいは 「皆さんそうしていらっしゃいますよ」と言われると
         自分だけ取り残されてしまうのが不安になり、矢も盾もたまらない

     はたまた自分自身はバカだから信用できない
        だから「誰か偉大な人に」 ・・・指導して欲しい、人生を導いてもらいたい

     そうして世界中の様々な民族が、指導者を、救世主を何千年も待ち続けてきた・・・

でももしあなたが、
 群衆がゾロゾロと殺到する方向を無視して悠然と生きている人ならば
       きっとあなたには気高さがあるだろう、高貴さが漂う人だろう

でもその生き方を選ぶためには、武士道のような死を背景に背負った勇気が必要だろう

「喰わねど高楊枝・・・」そんな事を言っていたら、きっとあなたは〝乗り遅れる〟
でもそれでもいいとなると、それは極めて危険な、絶対的な死が待っている

            しかし・・・  それでもいいじゃないか?

その気高さ、孤高さ、潔さを、誰ひとり振り返ってみることがなくても、誰にも知られなくても
それでもいい・・・  そして当の本人は、別に「勇気を振り絞って」そうしてるわけでは、・・・ない

     ・・・そんなふうにしか、生きられないからだ、そこにしか道がないからだ

      ・・・そしてその先にあるのが断崖絶壁であるならば、
                 きっとそこに辿り着くのは「死ぬのに絶好な日」なのに違いない・・・

      ・・・・「過去からの信念に追い立てられて生きていく」
                   そのこと自体がすでに「死んだ人生」ではないだろうか?

だから、何も信じない、信じる必要は無い、信念によって選択肢を左右させることもないからだ

ただ生きる、生きられるところまで生きる、
          何の信念も持つことなく・・・
           何ひとつ待つこともなく・・・  手ぶらのまま

それは「いきたまま、奈落の底にどこまでも墜ちていく」生き方・・・
  だれも、なにも支えてはくれない  ・・・でも本当は誰の人生だって、そうなのだから

誰かを信じ、何かを信じて生きていく人達が、これからも殆どだろう
でもそういう人達でさえ、その決定をしたのは結局自分の責任だ
誰も人の人生の責任を負うことなど出来はしない
誰も自分の人生の責任から逃れることは出来はしない

・・・結局のところ
   その責任を100%自覚して自分に誠心誠意生きていくか?
   あるいは
   その責任を自覚せずに、常に誰か、何か、の支えを探し求め、彷徨い続けるか?

          そのどちらかの人生しか、人間にはないのかも知れない