1/∞(無限分のイチ)は限りなくゼロに「近い」数字、つまり限りなく「近似値」ではあるが
分母が如何に巨大な数字であっても分子が〝1〟である以上、ゼロにはならない

〝何か〟を永遠に切り刻んでいっても「切り刻む〝何か〟」が存在する以上
完全な無には辿り着かないはずなのだ

数字のゼロは〝何かの不在〟数字の1は〝何かの存在〟を象徴している
そういう意味では、
「〝無〟と〝有〟とは完全に重なることはない!」という
文学的な表現も出来る

コンピューターの世界では、全くそこにデーターが無いことをゼロとは表現せず
NULL(ヌル)と言う

では、漢字で表現する〝無〟とは、数字の〝ゼロ〟だろうか?〝NULL〟だろうか?

たぶん「リンゴがゼロ個」と言った場合、少なくともそこではリンゴが〝テーマ〟となっている
つまり〝ゼロ個〟とはいってもそこには少なくとも「・・・リンゴの個数に関しては」という
注意書きが付加することになる

だから何か単位が存在してしまうと、それは「ゼロ個」とはいえ〝無〟とはいえない

・・・つまり、「このゼロは~~を単位としたデーターですよ」という「情報」が存在していることになる

エハン・デラヴィ氏は
「この三次元空間に存在しているのは物質でもエネルギーでもなく〝情報〟ではないか?」
っとyoutubeでいっていたが、非常に興味深い   ・・・映画「マトリックス」の世界観を
煮詰めていくとそういう仮説も成り立つ

映画「アルタード・ステイツ」では主人公のジョセッペ博士はドラッグ体験によって
宇宙の根源を辿っていくが、その結論は
     「すべての始まりは『血も凍るような〝無〟=Simply nothing』だけだった・・・」
                                       と語る

ビッグバン説では
   ・・・現在のこの三次元空間も存在しなかったところから
           大爆発が起きて現在に至った・・・という

なので私たちはそこで、「空間がまだ存在しない状態」をイメージしてみようと試みる
つまりそれは『血も凍るような〝無〟=Simply nothing』のはずだが
わたしたちの脳でイメージ可能なのは、あくまでも空間が〝有る〟前提での
「空間も何も〝無い〟」状態だけだ

どこか空間の一点を凝視して、幅も広さも奥行きもない〝点〟を指さして
「何も無い」と叫んだとしても、それはあくまでも有る空間座標上を指さしている

その「ある一点」「限りなく小さな、無限に小さな一点=1/∞」とは果たして〝無〟なのか?

確かにそこにはリンゴもミカンも長さの単位も重量の単位も介入しないかも知れないが
「限りなく小さな点」とは、「理論上の点」に過ぎない

そこには相変わらず、「空間上の〝ある〟座標上の一点」というデーターが残り続ける


  さて、だからここで、「データーとは、何かの〝実在〟なのか?」という面倒な疑問がある

  たとえば一つのUSBメモリーを指さして、「ここに明日の仕事の予定表データーが入っている」
といった場合、その予定表データーは、やはり〝ある〟と言わざるを得ない

ところが、ちょこっとフォーマットしてしまえば、もうそこにはない
・・・物理的には同一のUSBメモリーに過ぎないのに

単に一連の信号が記録されているだけだ
その信号を、何かの〝実在〟とよべるだろうか?

   ここには「有る」と「無い」とが背中合わせになった世界がある

    データーを何かの「実在」と呼べるかどうかは怪しげな要素があるが
    でもひょっとしたら、情報こそがまさしく〝実在〟の根本なのではないだろうか?

「有る=〝1〟」を前提にして、そこを出発点にすると切り刻んでもゼロには達しない
ところが、はじめっから「有る」という背中合わせに「無い」があるのだとすれば
そのコインの裏表の両方を持っていることこそが「実在している」ことなのかもしれない

そもそもなぜ人は「永遠」について考えるのか?「無限」について考えるのか?
「何も無い状態」について考えるのか?

  ・・・ここに自然界にはあり得ない「想像~創造」の萌芽がある

自然界には「リンゴがゼロ個」という状態など無い

誰もリンゴについて「話題にすら」していない場合、「そんな状態は自然界にはありません」となる

ところが、ここに人間が居てそのひとが八百屋さんであったり、リンゴが買いたいと思っている
買い物主婦だった場合、「リンゴはあるか?」ということが話題になる

   ・・・ここで「リンゴはないですよ奥さん」という〝リンゴゼロ状態〟が現出する

つぎに、一体どこからどこまでの範囲の空間に「リンゴはない」といっているのか?

その八百屋なりスーパーなりなのだろうか?
  その裏手の倉庫ならリンゴの在庫は有るかも知れない

  もし、この地域全体、この季節ではリンゴの入荷が全くないのかも知れない
  もし、この世界に「リンゴという名称の果実など存在しない」ならば
      もう〝リンゴ〟ということが話題にもならず、
        つまりたとえば本当はそこは英語圏で、
        〝リンゴ〟はないけれど〝Apple〟ならあるかもしれない・・・・

   何を言いたいのかと言えば、「名称」とか「定義」とか「パラメーターの種類」によって
   自然界では同一の物が「存在したり、存在しなかったりする」と言うことを言いたいのだ

言葉が存在しない野生動物たちの世界には「リンゴ」も「Apple」もこの世には存在しない
しかし、リンゴが好物の生き物がそこに存在すれば、クンクンと臭いを嗅いで
空気中に自分の大好きな甘酸っぱい臭いを嗅ぎつけるかも知れない

・・・しかし嗅覚の鈍い人間にとっては、その場では「リンゴはゼロ」である

そして、「リンゴがゼロ」と宣言していると言うことは、その狭い空間の範囲では
本当にリンゴの実は存在しないが、それを話題にしている人間は「いつかどこかで」
リンゴを知っていることになる・・・  食べて「美味しい」と感じたこともあるのだろう

何かの事情でもし、リンゴが地球上で絶滅してしまっていたならば
物理的にはこの宇宙では「リンゴはゼロ」であるが、もし、リンゴの遺伝子情報さえ残っていれば
環境さえ整えば、またリンゴという種は復活するかも知れない・・・

・・・ならば、地球上のすべてのリンゴの木が枯れてしまっても、「リンゴはゼロ」ではないと言える

   ただし、機械的なデーターベースにリンゴが残っていても、リンゴの美味しさを
   未来の人類がひとりも知らず、「リンゴを復活させたい」という願いが人々の間から
   途絶えてしまったなら・・・・  本当はその瞬間こそが「リンゴがゼロ」の状態かも知れない

   この瞬間、「リンゴはゼロ」というよりも「リンゴはNULL」の状態と言うべきかも知れない

つまり結論として、「ゼロ」とは厳密には「存在しない」という意味ではない

    忘れ去られた時・・・、リンゴという名称も、イメージも、味の記憶も、すべて失われ
    人間が忘れ去り、話題にすらしなくなった時、リンゴは〝NULL状態〟へと追いやられ
    完全に空間上から消失する

なぜ地球上には水があり、空気があり、美味しい食べ物が一杯あるのか?

二通りの説明が可能だ

ひとつは一般的に〝スタンダードな〟科学的説明
地球という惑星が形成され、そこに適した動植物が繁殖し、それらを食料とし、
それらを〝美味しいな〟と感じる私たち人間が適応して発展したという説明

もうひとつは〝スピリチュアルな〟説明
元々私たちは人間の肉体を持つ前から、人間という種族を欲する宇宙意識体であり
それにそって宇宙が形成され、太陽系が形成され、地球が現在のようになるまでに
私たちの無意識レベルが〝ガイドした〟という説明だ

  ・・・・であるならば、「リンゴという種の終わり」ではなく「始まり」ですら、
     もう私たちの意識が関与していることになる

    ・・・・この「母なる地球」の誕生のパラメーター決定段階で、すでに関与している

これらの〝説(考え方)〟は、科学的に考えればヨタ話であり、妄想だが
可能性としては否定出来ない  ・・・ある程度、量子力学的なサポートも得られる発想だ

リンゴという植物種は自然界が長い時間を掛けて育み、
コンピューターは人間がアイディアし、開発、実体化した

   ・・・これが現在の私たちの標準的な世界観であるが
     ではなぜ人間という生き物には、人工的な創造が可能だったのか?

それは、「設計図」をイマジネーション出来るからである
そして、「設計図」には「幾何学的な発想」が不可欠で、
「幾何学的発想」の土台が「永遠」「無限」「無」・・・への思惟能力だ

私たちが住むこの世界にあるものはすべて「はじまり」があり「おわり」がある
つまり姿かたちあるものである以上、それらすべては「永遠」でも「無限」でもない
また「無」「ゼロ」「NULL」なども自然界では存在し得ない

これらのアイディアは全部「この世界に属さない〝何か〟」であり、それこそが
わたしたちに「設計図」を・・・・  意識的に何かを創造する可能性を与えている

   ・・・なぜか?  ・・・なぜか?
   ・・・つまりそれらこそが「私たちのふる里」だからなのではないだろうか?
   ・・・あるいはそれらこそが「私たち自身の正体」だからなのではないだろうか?