「この菓子は実にうまい!」

この瞬間、この菓子はうまいのだ!


質問

妻とか夫、恋人といった私達の生活上のパートナーについて

話して頂けませんか?


どういう時に私達はパートナーを辛抱し、

どういう時に関係を絶望的と見て、

いや破壊的ですらあるとみて放棄すべきなのでしょうか?


また、私達が持つ人間関係は過去生からの影響があるのですか?



osho

関係とは神秘のひとつ・・

そしてまた、関係は2人の人間の間に存在することから、

その双方に依存するものだ。


2人の人間が出会うたびに1つの新しい世界が創り出される。

ただ2人が出会うことで新しい現象が「実在」の中に現れる。


それは今までなかったもの、今まで存在したことのなかったものだ。

その新しい現象を通じて、2人の人間が変化し変容する。

関わることがなかったら、あなたはただある1つの存在、

関わることでたちどころにあなたは別の存在になる。

何か新しいことが起こるのだ。


   女性は恋人となる時には、もう同じ女性ではない。

   男性は父親となる時には、もう同じ男性ではない。


子供が生まれる・・だが私達は1つの肝心なことを完全に見落としている。

それは、子供が生まれる時には、その母親もまた誕生するということだ。

それは今までなかった存在、女性は存在していたが、母親は?

いやいなかった。


そして、この母親というのは全く新しい存在だ。

関係は、あなた方によって創られる。

が、その代わりまた、関係の方もあなた方を創る。


2人の人間が出会う・・

ということは、2つの世界が出会うということだ。

これは簡単なことではない。

非常に複雑な、もっとも込み入ったこと。

1人1人の人間が自分自身に対して1つの世界を持っている。

そして、それは長い過去と永遠なる未来を伴った、複雑な神秘なのだ。


最初のうちはただ外面だけが出会う。

しかし関係が親密なものに成長していくと、もっと近づき、

もっと深まるにつれ、少しずつ中心が出会い始める。

中心が出会う時、それは愛と呼ばれる・・


外面だけが出会っている時は面識に過ぎない。

あなたは相手に外側から、境界線あたりから触れるだけ。

そうだったらそれは面識、ただの知り合いの間柄だ。

何度となくあなた方は、面識の間柄を愛と呼び始める。

そうなったら、あなた方は誤謬に陥ることになる。

面識は、愛ではない。

愛とは稀なもの。


人にその中心のところで出会うということは、

あなた自身、1つの革命を通過するということだ。

なぜなら、もしあなたが他者にその中心のところで出会いたいと思ったら、

あなた自身、相手が自分の中心に到ることを許さなければならないからだ。


あなたは防御を解いて、壊れ易くならなければならない。

完全に自分を開かなければならない。

それには危険がある。

他者をして、自分の中心にまで到らせるということは冒険だし、危険だ。

その人があなたに何をするか、あなたには知りようがないからだ。

それにひとたびあなたの秘密が知られたら、

ひとたびあなたの隠れ家が隠れ家でなくなったら、ひとたび

あなたが完全にむき出しになったら、相手が何をするかあなたには全く分からない。

その怖れがあって、私達は決して自分を開かない。


ただの面識・・ところが、私達は愛が起こったのだと思う。

外面が出会う・・それを私達は出会いがあったのだと考える。

が、あなたはあなたの外面ではない。

本当に、外面とはあなたが終わりになる境界線のこと、あなたの周りを囲っているだけ。

それはあなたではない!


外面とは、あなたが終わりになるところであり、そこから全体が始まるところ・・

たとえ何年も一緒に暮らして来た夫と妻でさえ、

ほんの面識の間柄でしかないかもしれない。

互いのことを知ってはいないかもしれないのだ。

誰かと長く暮らせば暮らすほど、

人は互いの中心はまだ未知のままであることを忘れていく。


従って理解すべき第1のことは、

ただの知り合いの間柄を、愛と勘違いするなということ。


あなたはその相手と、一緒に寝るかもしれない、

その相手と性的に繋がっているかもしれない。

が、セックスもまた外面のものだ。

中心が出会わない限り、セックスは2つの肉体の出会いに過ぎない。

そして2つの肉体の出会いは、あなたが出会うこととは違う。

セックスもまた面識の程度に留まる。

物理的、肉体的・・だが表面的に知ることに過ぎない。

自分の中心に到るほどに他者が内部に入ることを

許せるのは、あなたが怖れていない時だ。

あなたが恐怖を覚えていない時だ。


だから私はあなた方に言う。

生き方には2つのタイプがあると・・

1つは恐怖指向のタイプ、もう1つは愛指向タイプ。


   恐怖指向の生き方は、あなたを決して深い関係に導いてはいかない。

   あなたは怖れ続け、相手があなたの核心にまで浸透することを許さない。

   ある程度までは許しはするが、その向こうには壁が現れて、全ては止まる。


  愛指向の人は宗教的な人だ。

  愛指向の人とは、未来を怖れない人、成り行きや結果を怖れることのない人、

   今、ここに生きる人・・


これこそクリシュナがギータの中で、アルジュナに語っていることだ。

結果の為に心乱されるな。

それは恐怖指向の捉え方だ。

そこから何が起こって来るかなど、考えてはならない。

ただ、ここに在って、トータル(十全)に行うがいい。

計算してはならないよ。

恐怖指向の人はいつも計算している。

計画して、いろいろ取り決めて安全を計る・・生全体が、こうして失われて行く。


ある年老いた禅僧の話を聞いたことがあるのだが・・

最後の日がやって来て、彼は死の床に就いていた。

彼はその夜、他界することを宣言した為に、彼の信奉者、弟子、友人達が集まって来た。

彼を愛する人達はたくさんいた・・

そういう人達が皆集まって来たのだった。

遠方から国中から、人々が彼の許にやって来た。

が、ある古い弟子の1人は、師が死の床にあると聞いて市場に駆けつけた。


「師匠は、ご自分の家で死のうとしていらっしゃるのに、

なぜお前は市場になんぞ行くのかね?」


   ある者が尋ねると、その古い弟子は言った。


「師には大好きなお菓子があるのを私は知っているんだ。

だからそのお菓子を買いに行くのさ」


   その菓子を見つけるのは大変なことだった。

この種の菓子は、もう流行っていなかったからだ。

だが、夜までには何とか彼は間に合わせることが出来た。

彼は菓子を持って馳せつけた・・


その頃、人々はいささか心配になっていた。

というのも、師に誰かを待っているような気配があるからだ。

眼を開けて見回すと、また眼を閉じる・・と、例の弟子が到着した。

師は言う。


「そうか、お前が来たか。あの菓子はどこだ?」

そこで弟子は菓子を差し出した。


師が菓子のことを訊いたことで、彼は非常に喜んでいた。

死にかかっていながら、師はその菓子を手に取った。

しかし、その手は震えてはいなかった。

非常な高齢にもかかわらず、その手は震えはしなかった。

誰かが尋ねた。


「あなたは大変年を取られているし、

しかも今や死の縁に立たれている。

すぐにも最後の息が引き取られようというのに、

あなたの手は震えていませんね?」


すると師は言った。


「私は震えはしない。

怖れがないからだ・・私の肉体は年老いたが、私はまだ若い。

そして私は、たとえ肉体が消え去ろうと、若くあり続けるだろう」


それから彼は、菓子を1つ口の中に入れると、もぐもぐ味わった。


誰かが尋ねる。


「師よ、遺言は?

最後のメッセージは何ですか?

もうすぐ私達を離れて行こうという今、

私達に覚えていて欲しいことがありましょう?」


と、師は微笑して言った・・


   「ああ、この菓子は実にうまい!」


これこそ、今ここに生きる人だ。


   「この菓子は実にうまい!」


死でさえ、この時には場違いだ。

次の瞬間というのは無意味なこと。

この瞬間、この菓子はうまいのだ!


もしあなたが、この瞬間の内に在れたら、

この現在の瞬間に、この現在性、この充実・・、

この時に初めて、あなた方にも愛することが出来る。