斉藤ひとり氏はこんな事を言っている
「人は自分に必要な学びが何か?みんなちゃんと知っている」

「だから私は英語はさっぱりだけれど、海外との取り引きもさっぱりだし
 全然困っていない・・・」
                       っと周囲に笑いを誘っている

  今日はこの彼の言葉が妙に沁み入ってきた・・・

  あなたは、「どうしてこんな所にこんな人が居合わせたのだろう?」っと
  不思議な運命の巡り合わせに仰天したことは無かっただろうか?
  誰でも多少はあると思う

  人間は、自分の将来、どんな知識と経験が必要とされるのか?
  まるで知っているか?のようだ

  わたしたちが、人生を〝かったるい〟〝メンドクサイ〟と感じるのは
  自分と無関係な事柄に無理矢理関与させられた時なのでは無いだろうか?

  ・・・人は皆、自覚している以上にすでに目一杯生きているのだと思う

     決して余裕が有るわけでは無い、だれもがすでに人生を100%生きている

      だからこそ、自分には無関係と感じるものに付き合わされることには
      大きな苦痛を感じるのじゃないだろうか?

  しかし、悲しいことに私たちは大学入試における共通一次テストのような発想から
       なかなか抜け出せないのだ

  自分には将来、何が?どんな知識と経験、学問、技能が必要なのか?

       基本的には〝分からない〟

       自分は自分を〝知らない〟 

       ましてや自分の将来の要望なんて、もっと〝分からない〟

    だから何でもかんでも平均的にまんべんなく習得しようとする・・・

  本当に広範囲の雑学が将来必要で、またそれを予感して広範囲に知識欲がある人は
  それでいい

   クイズダービーのはらたいら氏の様な、マンガ家になるとか、クイズ番組のスターとして
   将来大活躍する予定の〝魂〟なのかもしれない・・・



  しかし、人が何かに対して関心を持つのか?興味を持たないのか?

    これは、非常に何気ないコトのようでいて、
            実際はそこには莫大な宇宙の計らいがあるように思う

     だからそんな時に
     「〝食わず嫌い〟はイケマセンヨ」みたいな教育ママゴンの良識を押し付けるのは
      意外なぐらい〝極めて危険〟なことなのかも知れない

      わたしは〝受験戦争〟という言葉が流行しだした頃に受験生だった世代なので
               そのまっただ中で実に嫌な青春時代の思い出があまりに多い

       そして実際に社会に出てみると、あの無機的な詰め込み教育の歪みが
       如何に巨大なのか?  痛感する例も多々見てきた

       わたしたちの世代の親たちは〝我が子に良かれ〟と思ってしたことなのだろうが
       それが如何に大きな精神的な歪みを生み出したことか!?

      だから私たちの次の世代が、〝無気力さ〟に覆われていることは全く不思議では無い

     斉藤ひとり氏が言うように、ひとはみな本能的に自分が身につけるべき知識と経験を
     知っているのだと思うし、それに逆らって親や社会がコントロールしようとしたり
     無関心さを矯正しようとして、押し付け教育をしたりすると、
       〝けだるさ〟〝かったるさ〟〝無気力〟な感覚に追いやられた人達は
        ますます増える一方だろう

      そしてその正反対の、猫っかわいがりの甘やかしや放任教育も、同じコインの裏表だ

     先日の記事で、
    OSHOがいう「すべては新しいのに、決断は古い。」という言葉は
      親や教師にマインドファックされた青少年達の全ての心理状況を指摘していると思う

       もはやいままでの全ての道徳教育、人格形成主義、人間のプログラミング計画は

                          古い

         ・・・つまり〝人格〟というのは決断、決心、インプットされた人工的観念の集積だ

             自分自身の生き生きとした感覚を消去された人間ロボット君達が
             完全に自分自身の〝こころの声〟の聞き方を忘却してしまっているのは
             まったくもって不思議では無いのだ

  決心したり、決断したり、人格を磨いたり、片っ端から知識や経験を物色したり・・・

 これらはすべて、自分の直感を信じられないという宣言と同義では無いだろうか?
 しかし多くの人が自分の直感を〝信じる〟以前に〝感じる〟事が出来ないのだ・・・
 これらの人達の「声なき多くのうめき声」が、私には聞こえるような気がするのだ・・・