高尾の山の無人の寺に一週間程籠もって断食した時、
お堂の中から寺のひさしより流れ落ちる雨の滴を見つめて
自問自答した・・・

「なんでオレはこんな所で、こんなコトしてるんだ?」

答えは簡単だった・・・

「そうか、オレはただそうしたいからそうしたんだ・・・」

その時世界中の誰もオレとは関係が無かった
誰もオレに何かを強制した者はいなかった

いたとしても、それを命がけで逆らわなかったのは
オレ自身の責任だった

・・・命がけで抵抗して、抵抗しきれない「無理強い」なんて
   そう滅多には無いのだ

    もちろんたったひとつの命だ

     「命がけの抵抗」なんて早々出来るものでは無い・・・

      とはいっても、自分自身の命だからこそ
      そこまでの覚悟を決めるならば、最悪は死ぬだけだ

 本当の被害者というのは、「命がけ」で抵抗して命を奪われた人だけだ


友人の縁で会社の元社宅だった倉庫の中で、
居候させてもらった私は一時、家賃からも解放され
やはり断食を試みながら何ヶ月も考えあぐねたこともある

  何故自分には「やりたいこと」が見つからないのか?
・・・誰もがまじめに働いているというのに?

   「何故どんな仕事をしても長続きしないのか?」
    「何故正社員になりたいと思えないのか?」

     若い時の私は、まさしくニート、ヒキコモリの先駆けみたいな男だった

         「きっと原因は、自分が本当にやりたいことが
                     見つかっていないからに違いない」

         私はそう憶測して、その憶測による回答を探しあぐねた

        私は、答えを探して、焦げたような天井板の木目を睨みつけていた
        そして、小便をしたくなり、
        ろくにシーツも洗っていない薄汚れたせんべい布団からおもむろに起き上がって
        トイレに行き、そしてそのフトンに帰って来た・・・

        その万年床に再び潜り込んだ瞬間、高雄の山寺の時と同じ閃光が脳内に走った


    「そうだ、オレは今この瞬間、〝何もしたくない〟んだ・・・・」

    「そして、〝何もしたくない〟ということが、オレの一番〝したいこと〟だったんだ・・・!!」


 つまり、「何をしたいのか?」っと自問自答していたのだが
 それは、「〝自分は〟〝何かしたいことがある〟に違いない」という勝手な思い込みからだった

つまり質問の前提が間違っていたのだ・・・だからいつまでたっても問いが堂々巡りだったんだ

そうだ、思えば私は自分が「何もしたくない」ことを自覚するのを恐れていたんだ・・・
何も理想が無いこと、何も目的が無いこと、
何も動機も、希望も無いという自分自身を認めることを・・・、
       ・・・いつの間にか死ぬ程恐れ、タブー視していたんだ


だがまてよ?

でもおれは何もしたくないと自分に言っておきながら、でも俺は今トイレに行ってきたじゃないか?
「トイレに行く」というのは「おしっこがしたい」という動機や目的があったというコトじゃ無いか?

・・・しかしこの二つ目の疑問はすぐに答えが見つかった

   生理現象というのは、自然な現象なのだ・・・
    だからここには〝わたし〟を持ち込む必要が無かったのだ

     〝わたし〟が持ち込まれなかった時、
      そこには〝自分がやった〟〝自分が求めた〟という
      自覚は無いのだ、自意識という重荷は無いのだ!!


老子が言う〝無為自然〟という言葉の意味が痛感出来た気がした

〝無為〟であることと〝自然〟であることとは切っても切れないのだ

〝無為〟と〝行為〟とは同じコインの裏表だった

そこに〝自然〟という接着剤=中心があった時、
無為と行為とは切っても切れない一体になるのだ

 無為とは、単にジッとしていることではない
 その瞬間瞬間に必要なこと、自然に起きる行為を為せば良い

 一見とても不自然に見えること、一見暴力的で粗暴に見えることでさえ
 必ずなにがしかの必然、自然が息づいている

 〝無〟とは単にナッシングなのではない
  そこには宇宙の最果てまで一瞬で繋がった〝無限〟があるのだ・・・


本当は誰もが、無為自然から一歩たりとも踏み出すことなど出来はしない
誰の人生も、その始まりから終わりまで、全ての全ては無為自然なのだ・・・

・・・ただしそれを自覚出来ているか?いないか?には大きなストレスの差がある

    人は誰しも「運命の被害者」になる事によって、責任逃れをしようとする

    そして「責任逃れ」という逃避行動そのものが、まさしく新たな責任を生じさせてしまう

    それこそが雪だるま式に転がり増えていくカルマなのだ

    そして言い訳すべきことがますます増えていく

    責任逃れが、ますます大きな責任を背負う状況へと自分自身を追い込んでいく

    たしかに「ことば」というものは人間だけに許された「便利な能力」なのだが、
    この〝便利さ〟の一体どれ程が「責任逃れ」に費やされているんだろうか?

    わたしたちは沈黙出来ない、静寂を楽しめない、無為の中にくつろげない・・・

   そんなことよりも言い逃れし、目標と理想を追いかけ、野心を遂げようとする・・・

・・・ところがそれ程にも、自分の方から苦しみに頭を突っ込みながらも、本当は自分が
   何故そうしているのか?   自分を何故そんなにも責めているのか? 縛り付けているのか?

    その本当の動機すら、思い出せなくなっている・・・

     すべては、他人から始まっていることなのに、
       いつの間にかそれが自分の本性なのだと信じ込み、
       いつしか「その始まりを問い正そう」とすることに恐怖を感じるようになってしまった

      それはあたかも、私たちの中で勝手に寄生し、成長した寄生虫のようだ・・・

      ところがそれを私たちは、「家族愛」だとか「社会の常識」だとか「人としてのモラル」だと
      信じて疑わなくなってしまった・・・

    もはやその借り物の仮面、寄生生物こそが自分自身の人格、自分の良心なのだと
    信じてしまい、それを疑うことを「悪」と呼ぶ様にさえなってしまった・・・

   だれもが王様は裸にしか見えないのに、
   誰もがお互い、王様のゴージャスなニューファッションを称賛し合う

   誰もが人生で一番大事なことは、

   「深く考えすぎないこと」「他人や組織と協調していくことが成功への道」
   「ガマンするのがオトナ、常に努力し続けることが美徳・・・」
    その反面、「・・・諦めが肝心、妥協することが生き延びる唯一の方法」なのだと・・・

はたして、そんな人達の間で、「オレ、本当は何もしたくないんだけど?」だなどと
                    正直に自分自身を認めることが出来るだろうか?

スタイリッシュに、さりげなく振る舞うことが、きっと多くの人の〝無為自然〟なのだろう

しかし私とは、こんな世の中のまっただ中で、なぜか泥臭く生まれてきてしまったようだ
こんな私に一体、誰が見向きするだろうか? 
いや、見向きしてもらっても、それが何になるだろうか?

・・・そんなことを危惧してもしかたない、そうでしかありえないのだから

本当のことを言ってしまおう・・・

私には人格なんて言うお上品なものは無い
あったとしても、そんなものは〝ひとさま〟に取って付けたものに過ぎない
そんなものは本当の自分じゃ無い、嘘っぱちだ・・・

どうかだまされないで欲しい、わたしだってダマしたくは無い
もう、こころにも無く他人に調子を合わせる自分にはホトホト疲れてしまったのだ
自殺したくなるぐらい・・・  わたしは人に愛想笑いしている自分が嫌いだ

他人に愛想良くしているあなたも、まるで私を見ている様で嫌いだ

でも、私は別に人が嫌いなんじゃない・・・ 嘘が嫌いなだけなんだ
そして嘘に対して脆弱な、不寛容な自分も叉、嫌いなのだ

人間の優しさも、厳しさも、寛容さも、狭量(きょうりょう)さも、
智恵も、愚かさも、  ・・・・何もかもが信じがたく、受け入れ難い

だから、OSHOが言う
「人が悟るのでは無い」「どうして人が悟れる?」という言葉に強く同意を感じる・・・


  人間は単に人間であるだけでは
   地球を食い荒らす芋虫以上の何かでは無い

   わたしは「人間主義者(ヒューマニスト)」ではない、・・・まったくない
   わたしは「人間バンザイ」と喜んでいる人達が全く信じがたい

   人間が人間を称賛して、一体どうしようというのだ?

私たちは「人間らしさ」を発揮し、許容したことで、一体どこまで
人間の愚かさを正当化してしまっただろうか?

今日の現実をちょっと見渡すなら、
〝ヒューマンな優しさ〟に満ちあふれた、この〝人間らしい〟世界が
どれ程の「醜い欲望の自己正当化」を野放しにしたか?が分かるだろう



だからわたしは民主主義も、安保賛成も、反対も信じていない
ひとりの人間としての自分自身のあらゆる知識も、夢も、理想も、理念も、信じては居ない

人というのは、いずれ滅びるべき種族だと思う  事実、私たちは追い詰められている
問題の根底とはイルミナティーのNWOでもフリーエネルギーの解放でも無い
無尽蔵に欲望が解放されることが、真の解放だとは思えない
〝その前〟に必ず大きな試練が、しっぺ返しがあるに違いない

人間は「人のままでいる」限りにおいては・・・  まったく絶望的で破滅的存在だ

私たちが高らかに唄う「愛の歌」とは「復讐の歌」「嫉妬の歌」と、切っても切れない
それが「人間賛歌」の正体なのだ

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