Oshoの語るサニヤスとは?

サニヤスはこれまである種の師(マスター)と繋がりがあるものであった。
師が伝授(イニシエーション)
するものだった。

サニヤスとは、他の誰かからあなたに与えることのできるものではない。
サニヤスとは自分で取得するものであって、誰かが与えるものではない。

あるいは、
こう言うほうがいいだろう。
存在そのもの以外に、他の誰がサニヤスを与えられるだろ う? 

もし誰かが私のところに来て、

『私にイニシエーションを授けてください』
 と言ったら、私は彼に言う。

『どうして私があなたにイニシエーションを授けることができるかね?
 私は証人になることしかできない。』


 イニシエーションは、あなたが神聖なものから受け取るものであり、
 イニシエーションは、あなたが 存在そのものから受け取るものである。
 私はその証人になることぐらいしかできない。
 証人というのは、私はその現象が起きたときにそこにいたということだ。
 それ以上のことは何もない。

 師に結びついたサニヤスは宗派にならざるを得ない。

 師に結びついたサニヤスは決して自由をもたらさないし、
 束縛だけをもたらすだろう。

私は彼らの師になるつもりはなく、
ただ、彼らのサニヤスへのイニシエーションの証人になるだけだ。


事実、
サニヤスは彼らと存在を繋ぐ直接的な関係であるだろう。
サニヤスへのイニシエーションのための儀式が行われることはない。
だから彼がそうしたいときにそれを辞めることは少しも難しくない

決断を通して生きる者は、決して自由ではありえない。 より抜粋
私にとっては、イニシエーション(秘儀参入)そのものが遊びだ。
私はどんな資格も求めない・・
あなたに資格があろうとなかろうと関係ない。
資格とは何か深刻なことをする時に求められるものだからだ。

存在しているというただそれだけで、
すべての人に遊ぶ資格が充分備わっている。
遊べばいい。

資格などなくてもどうということはない。
ことの全体が遊びにすぎないからだ。
私がどんな資格も求めないのはそのためだ。

また私のサニヤシンにはいかなる義務もない。
サニヤシンになった瞬間、あなたは全面的に自由になる。


それは、今やあなたが決断したということだ。
そして、これが最後の決断になる

あなたはもうこれ以上いかなる決断も下す必要はない。
あなたは最後の決断を下したのだ・・
決断をせずに生きるという、自由に生きるという決断を。

決断を通して生きる者は、決して自由ではありえない。
そういう人は、過去に決断を下したために、いつも過去に束縛されている。
未来に向けて決断を下すことは決してありえない。
なぜなら未来は未知であり、下された決断は
すべて過去に束縛されているからだ。


サニヤスへのイニシエーションを受ける瞬間、
あなたは地図のない、計画のない未来へと参入してゆく。
もはやあなたは過去に縛られてはいない。

あなたは自由に生きてゆく。
今やあなたは演じ、戯れ、
自分に何が起こってもそれを受け容れてゆく。
不確実さのなかを生きてゆく。


名前を放棄したり、財産を放棄したりすることは、真の不確実さではない。
そういうのはきわめて皮相な不確実さだ。
マインドは同じままだ。

(人はなぜ確実性を求めるのか?・・・
・・・それは安心、保証、優越、思考停止、そして欲望のリピート(反復)のためだ:風間)



財産を確かなものだと考えているマインドは少しも変わっていない。
財産ですら少しも確実なものではない。
財産をすべて手にしていたところで、あなたは死んでゆく。

家ですら少しも確実なものではない。
あなたは家のなかで死を迎える。

「私は放棄した。今や私は不確実さのなかに生きている」

と考える

マインドの中には、
財産、家、友人、家族は確かなものだという誤った見解
今もなお強く残っている。

過去に縛られずに生きるマインドだけが、
そういう人だけが、不確実さのなかに生きている。
(それゆえに社会秩序、治安、保障、家族制度が世界でもトップクラスに安定している我が国では、
OSHOの語るラディカルな宗教性はある意味で最も受け入れられがたいのでは無いだろうか?:風間)


これはひじょうに多くの含みがある。
なぜなら、あなたが知っていることはすべて過去から来ているからだ。
あなたのマインドさえもが過去の一部だ。

だから、知識を放棄する者こそが、真に何かを放棄している。
あなたそのものが過去から来ている。
あなたとは蓄積された経験にすぎない。
だから、自分自身を放棄する者はあるものを放棄している。

   あなたの欲望、
    あなたの希望、
     あなたの期待、

そういったものすべてが過去を確かなものにする。
自分の過去を放棄する者は、自らの欲望、希望、期待を放棄している。
今やあなたは、まさに虚空、無、何者でもない者のようだ。
サニヤスとは、何者かであるという一切の主張を投げ捨てることだ。


今やあなたは、身分証明書を失い、
何者でもないありかたのなかへと動いてゆく。


だから、これは、あなたのマインドが下す最後の決断であり、
それによって過去は閉ざされる。
自己同一化は壊され、連続性はそこにない。


あなたは新しい。あなたは再誕生している。
生きている者たちは不確実さのなかに生きている。
本当に生き生きとしていれば、あなたは不確実だ。
不確実であればあるほど、生は躍動する。


したがって、私にとってサニヤシンとは、
最高度に、最大限に生きようと決意した者をいう。
それは両端から燃えている炎に似ている。
私のサニヤスには義務は一切ないし、束縛も一切ない。


あなたはいかなる規律にも拘束されない。
不確実さを規律と呼びたいなら、それはまた別な話だ。
だが、当然それは内なる規律になる。


あなたは無政府主義者になりはしない。
いいやそうではない。
私は、無政府主義者になるとは言っていない。
無政府主義は秩序、組織と常に切り離せない関係にある。


秩序を放棄する場合は、あなたは決して無秩序にはなりえない。
(自由を目指す者は道を歩まないのでは無く、自由の道を歩む:風間)
それは
秩序を否定することではなく、たんに放棄する

(距離を保つ:風間)
ということだ。
放棄は、ここでは調和するという意味になる。
それは、あなたが他人のために演じるたんなる演技、ゲームにすぎない。
あなたはそのことで深刻になったりしない。


それはゲームのルールにすぎない。
左を歩いたり、右を歩いたりするのは、他者のため、交通のためであって、
それに関して何か深刻なことがあるわけではない。
そこには何も深刻なことはない。


だから、サニヤシンは無秩序にはならない。
だが、自分自身に関する限り、自らの内なる意識に関する限り、
もはや秩序はなくなる。
これは無秩序になるということではない。
無秩序は常に秩序の一部だからだ。

秩序があるときには、いつでも秩序が乱れる恐れがある。
秩序 (他動的規律) がなければ、秩序が乱れることもない。
そこには自発性(自発的規律) があるからだ。

瞬間から瞬間へとあなたは生きる。
瞬間から瞬間へとあなたは行為する。

一瞬一瞬が完結している。
あなたが決断するわけではない。
どうやって行為するかを決めるわけではない。
その瞬間がやって来たら、あなたは行為する。

前もって決断することもなく、前もって計画を立てることもない。
その瞬間があなたにやって来る。
あなたはその瞬間に遭遇し、何が起こっても、受け容れる。


あなたは、自分の内側から湧いてくる新しい規律、
刻一刻と変化する規律をいっそう感じるようになる。
それはひじょうに異なる次元だ。

あなたが前もって何をすべきかを決めておくのは、
自分がその場で臨機応変に行為できるほど
意識的ではないと思っているからだ。


あなたには自信がない。
前もって決めておくのはそのためだ。
だが、それでもあなたは決断してゆく。

その瞬間に行為できもしないのに、どうして前もって決断できるだろう?

今のあなたには経験が足りないが、
その瞬間が来るまでには、さらに新しい経験を積んでいる。
前もって決めておかねばならないとしたら、何も意味をなさなくなる。
それではものごとを台無しにするだけだ。
すべては新しいのに、決断は古い。

そして、その瞬間に応じた行動がとれなければ、やましさを覚える。
だから、「前もって決めなさい!」と
あなたに教えた者たちはみな、
罪悪感をつくりだしている。


実行しなければ、あなたはやましい気分になる。
実行しても、思いどおりにはゆかないから、欲求不満がついてまわる。

だから、私は
「いかなる決断にも縛られてはいけない。そうすれば自由になる」
と言う。

一瞬一瞬、そのつど行為が起こるにまかせ、
その瞬間、あなたの全存在に決めさせるがいい。

行為が起こるその瞬間に、決断を起こさせるがいい。
決して決断を行為に先行させてはいけない。
さもなければ、行為は決して全一なものとはなりえない。

前もって決めるときには、頭で決断していることを憶えておきなさい。
あなたの全存在はそのなかにない。
その瞬間がまだ実際には来ていないからだ。