信頼と 〝うぶ〟であることの違い



OSHO インターナショナルファウンデーションが贈る
「信頼と 〝うぶ〟であることの違い」

Q)
信頼と〝うぶ〟であることの違いは何ですか?


OSHO)
違いは広大だ
しかしその境界線はとても微妙だ

  うぶであるとは
   無知であるということだ

  信頼とは
   存在しうる最も知性的な行為だ

そして
覚えておくべき特徴とは
両者とも騙される
両者とも欺かれる

しかし うぶな人は
騙されたと感じ
欺かれたと感じ
腹を立て
人を信じなくなり始める


彼のうぶさは 遅かれ早かれ不信に至るだろう

そして
信頼の人は
同じように
騙されるだろうし
欺かれるだろうが
傷ついたとは感じないだろう

彼は自分を騙した人たちに対して
自分を欺いた人たちに対して
ただ慈悲を感じるだろう

そして彼の信頼は失われない

彼の信頼は
あらゆる策略に関わらず 育ち続ける

彼の信頼は 人類不信へとは変わらないだろう

これらが特徴だ
初めのうちは 両者とも同じに見える

しかし最後には
うぶであるという質は
不信へと転じ

信頼という質は
より一層の信頼へと育つ

より一層の慈悲 
人の弱さや人のもろさへの一層の理解へと育つ


信頼はとても価値あるものだ

だからその人は 信頼以外なら
すべてを失う用意がある

著作権c OSHO International Foundation

これは「アルジャーノンに花束を」という映画が提示するテーマ「無知と無垢さ」
に対するひとつの解答だと思う

アッシジのフランシスが人類に提示してきた
「無限な神聖さ」への神秘の解明だと思う・・・

私たちが「聖なる人」っと崇めるのは、大概、天才的な賢さを持つ人だ

愚かと思える人を崇める人などまず居ない
だから私たちは成功法則セミナーの講師を崇める・・・

・・・かれらはどう注意を払えば他人に騙されないかを教えてくれる
   どう振る舞えば他人に協力して貰えるか?他人の力を利用出来るか?
    教えてくれる

でも、OSHOが語っている〝信頼で輝く〟聖なる人は、全く違っている

彼、彼女は、決して「騙されないぞ」と言わんばかりに身構えたりはしない
子供のように天真爛漫で無邪気で、決してビジネスのスーパーマンではない

 ・・・かれらは騙される、間違える、  ・・・それでも愉快そうに笑っているだけだ

 ・・・むしろそういう現象に興味を持って面白がり、そういう体験をしたことに感謝する

    しかしそれはなぜかと言えば、彼らが単純に愚かなのではなく、
     彼らは自分の愚かさを熟知しているだけのことだからだ

     彼らは、いつも自分自身の無様(ぶざま)さ、失敗を他人と共に笑い転げる

     それらをハプニングとして楽しむ

  かれらは
     比較したり、評価することが如何に愚かで、惨めで、傲慢なことなのか?
                            熟知しているのだ

      結局のところ人生において、何が損で、何が得なのか?
      そういう視点でものごとを評価しても、
      そういう視点で世界を裁くこと自体が、
       大局的には「大いなる損失だ」と知っているのだ


      かれらは世間的な物差しの限界をよく知っているのだ
      だからかれらは、その「物差し=メジャー」を放棄してしまったのだ

      だからOSHOは、
      「信頼とは存在しうる最も知性的な行為だ」  っと言っているのだろう

人間というのは動物とブッダとの中間生物なのだ
だから中途半端な物差しにしがみついて生きている

そして人間同士、未知に怯え、不確定さに震えながら、寄り添いあって生きている
自分自身ででっち上げた信念体系を共有し、それに支えてもらいながら・・・
・・・頷き合い、助け合いながら生きている

だからこれ程までに、「お友達」「仲間」「同志」「救世主」を求め続けているのだ

だから人間というのは、
人間であり続けている以上、
完全な知性体として開花出来ない以上、
近い将来に必ず自滅するのだ
敵と味方とに分裂して
常に殺し合う運命なのだ


完全な知性に開花する人は、
必ず信頼を選ぶ、選ばざるを得なくなる・・・そこに我が身を献じる

中途半端な人間だけが、常に〝選ぶ〟、
信頼の粗末な代用品である〝信用〟を選ぶ

そして条件付けによって、常に〝あれか?これか?〟より良い方に右往左往する・・・

そして、特定の何か?その自分が選んだもの自体によって、特定の運命に拘束されてしまう

その選択肢のどれもが、実は〝不正解〟なのだ・・・
その選択肢のどれもが、実は〝滅びへの道〟なのだ・・・