一昨日の土曜、あるスピ系の座談会に出席してきた

参加する前から予想していたとおり、終始イライラさせられる、不毛な会合として終わった
もう二度と行くもんかと、前回出席後も思ったが、なんでまた今回も出席したのか?

・・・今日はその自分の〝動機〟を自己分析してみた

   すると面白い結論に行き当たった

    私が人生でずっと追求してきたものとは何だったのか?
    それがわかった

      ・・・それは「人生の瞬間瞬間の〝濃密さ〟だったのだ!


わたしは、セックスする気も無い相手とハグをするのは大嫌いだ
「ハグはOKよ、でもエッチはお断り・・・」  なんだよそれ?

だったらはじめから、ハグなんぞするなよ?  そんな中途半端な感情で
男と女は抱きしめ合うべきではないんじゃないだろうか?

スピ的なきれいごとは虫ずが走る・・・それがどんなに美しく、真実の言葉であっても
誰かからのコピペであっては、退屈なタワゴトに過ぎない

血の通わない無機的なリフレインは、人々の感性を鈍らせる・・・・
美辞麗句や愛想笑いは、人生の時間の濃度を薄めてしまう・・・・

日本人には、だからハグの文化が無かった・・・そのかわり存在したのが
茶道なのだと思う


美味しんぼ 第112話 「ほうじ茶の心」 HD 2014 投稿者 Coleyxs529

人生の瞬間瞬間の濃度を高め、如何に濃密に味わうか?

日本人はそういうことに掛けては、つまり、「体験(時間)の濃縮」ということにかけては
天才的な民族だったのだと思う


私が思うに、たぶん本当の人生の成功者とは、本人にはその自覚は無いのじゃないだろうか?

・・・なぜなら、もし
真の「人生の成功」の定義が、
「どんな体験をしたか?」っという〝体験の種類〟問題なのではなく
「如何に濃厚な体験をしてきたか?」っという〝体験の濃度〟問題だとしたら???
〝濃い〟人生を歩んできた人は他人との比較に気を奪われて、
「自分が成功者か?否か?」だなんて、気にも留めないだろうからだ。

人生にはもちろん嬉しいこと楽しいことだけではなく、悲しいこと辛いこともたくさんある

だから、誰もが財力や権力を得て、
この「楽しいこと、嬉しいこと」を増やし、「悲しいこと、辛いこと」を拒絶し、回避しようとする

そしてそれにある程度成功した(らしき)人達を、私たちは「成功者」っと呼ぶのだが
それは真実なのだろうか?

ありのままの運命を作意を加えること無く受け止めて、
ありのままを味わうことこそが、真の勇者であり、成功者であり、勝利者なのではないだろうか?

ありのまま、すべてを軽やかに受け止め、味わい尽くす「愚者」こそが、
軽快さと濃厚さの相矛盾する両方を、
人生からギフトとして受け止めた「勝利者、成功者、王者」なのではないだろうか?