OSHO
「探すことで幸福を見つけた人は
 これまでひとりもいないのだ・・・・」

この「お金持ちになるセミナー」全否定みたいな
OSHOの言葉
興味を持つか?持たないか?
興味があったとしても、
どこまで理解出来るか?出来ないか?

・・・これはもはや、〝人種の違い〟なんじゃないかな?っと思っている

 別に皮膚の色とか国籍の話じゃない

  私がいっている〝人種の違い〟というのは、
  実はほんの僅かの違いで、肉体的な何かのことを言っているのじゃない

   しかしその〝ほんの僅か〟というのは、実は絶望的な違いな様に
   私は最近感じている


この動画でOSHOが語っている「幸せ」とは、
誰でも知っている世界的に有名なメーテル・リンクの童話「青い鳥」の
話だと思う

「幸福とは〝いつかどこか〟を探し回ってもない
        〝いまここ〟にある」

っという、スピ系では、合い言葉みたいになっているテーマだ

  ・・・しかし、すると今度は「いまここってどこ?」っという探求が始まってしまう

   確かに無理からぬ要素はある
   「いまここ」とは、厳密に言えば、時間的な延長もなければ空間的な移動もない
   サンクチュアリー(聖域)であり、宇宙の中心だからだ

              したがって、時空間=三次元、四次元に依存する
                    思考や言葉では説明や理解が出来ないからだ

   だから神秘主義に聞こえる・・・事実これはたしかに最大の神秘でもあるのだが
   ・・・でも本当はけっしてエクストラ・オーディナリな話ではない

ここでも何度か書いた様に、いかなる活動や探求も最初の動機に土台がある

    「分からない人種」っていうのは、そもそも最初の動機が違うのだ
    そこが致命的な違いだ

  でもだからといって「致命的な欠陥だ」とは言わない
   これは実に、あまりに、シンプル = 簡単すぎて難しいのだ

  私は決してアタマが良いわけではない
 単に餓えている、渇いている、そしてせっぱ詰まっているだけだ
            (わたしにとっては「アタマが良いですね!」っというホメ言葉は
                称賛ではなくわたしからの逃亡であり、差別を意味する)

成功哲学と、スピリチュアリズムをごっちゃに考えている人達・・・

こう言う人達というのは、ある意味羨ましい
なぜならまだ「いつかどこか」に期待していられるからだ

この〝期待〟とは
、〝不満な現在の人生への〟プラスアルファを探している、っということだ
〝不満〟というのは、世間的な意味での
    〝正気、常識・・・「フツー」〟でノーマルな欲求のことだ

こう言う〝いわゆるポジティブ〟で〝実に健全〟な善男善女達は、
フェイスブックやビジネスセミナーで〝お友達〟でもお得なだけで、
損や迷惑はあまり掛けられない・・ぜひ、仲良くしておくべきだ

私の様な、
口から泡を吹いて、いつも目を白黒させている狂人だけはやめた方が良い

たぶんわたしは、あなたとお友達になっても迷惑しか掛けないだろう

わたしは、「いつかどこか」まで待てない
わたしが持っているのは「不満」ではなく「絶望」だ、
だから人生にプラスアルファを望んだとしても・・・
        ・・・そんなものは贅沢にすぎないという自覚で生きている

お友達と談笑していても、自分には相手を利用したりされたりと言った
下卑た動機しか感じない
美しい女性とおしゃべりを楽しんでいても自分のスケベな男心と
男とは種類が違う欲望とをひしひしと感じてしまう・・・

友情も恋愛も、
人間関係はすべて「いつかどこか」に向かう欲望のゲーム・・・
そんな斜に構えたシラケしか社会生活に感じない程に
せっぱ詰まっている、追い詰められてしまっている
ただそれだけだ

今すぐ、今この瞬間に幸せを見つけられなければ破滅しかないのだ

今すぐ消滅するか?しかし、自殺しても手足を失うだけだから
万が一意識が不滅だったら、消滅するための〝手段〟や〝努力〟が必要なら
やはりもう暫く生きるしかないのか?  ・・・っといつも悩んでいるのだ

その試行錯誤がこのブログだ・・・  狂気の嘆きとあがきがこのブログだ

私には単純に「明日」が信じられない、明日に何の期待も出来ない
しかし、〝自殺〟という恣意的なエゴによる決断もまた、私にとっては
「不確かな明日」のカテゴリー(範疇)なのだ・・・したがって〝自殺〟さえ
わたしには救済になるとは信じていない・・・だから自殺を選択していないだけなのだ

だからお題目の様に「いまここ」を口にしながら成功セミナーに通っている人間と、
わたしとは〝人種が違う〟のだ・・・

(喩えではあるが)
今度の日曜の成功哲学セミナーの参加予定を
カレンダーにスケジュールとして書き込んでいる人が、
「いまここ」を見いだせるとは到底思えない

やはり
「いまここ」と「いつかどこか」っとは、決して同じ時空連続の軸線上にはないのだ
わたしだって、スケジュールを全く立てないわけではないが、
「明日がない」絶望感でいつも
胸をかきむしられて生きている

「いつか所有できるもの」「いつか熟練し、身に付けられる技能や、習慣・・・」
・・・それらは便利ではあったり、ある種の豊かさに繋がることは確かだ
しかし、〝便利さ〟〝豊かさ〟は明日には死ぬものだ
そこには絶対的な安らぎでも幸福でもない


努力して〝得た〟ものはいつかかならず〝失う〟
少なくとも肉体の死と共にリセットを喰らう・・・・

ネイティブな言語も、知識も、経験も・・・
この人生で
一瞬息継ぎすることが出来るだけ・・・  それだけに過ぎない
誰にも等しくいつかは必ず、遅かれ早かれ死に神が刈り取りに来るのだ・・・

ノウハウの教室が教えてくれるのは、この「息継ぎの上手なやり方」以上ではない

わたしは、OSHOが好きだとか、信じているとか、そういうことではないのだ・・・

全ての希望、全ての絶望、全ての失望、全ての期待と虚しさの向こう側に
「結局は〝彼〟の言葉しか見えない」と言うだけの話なのだ

その〝向こう側〟が〝ここ〟なのだ

フェイスブックで知り合ったあんちゃんは、いつもあちこち行っては
「あっちはすごかった」「こっちも凄かった」といって私も時々誘う

タマに付き合いで気になったものに行ってみたりもするが、
それは本当に私が感じている「いまここ」から連れ出せる様な〝出会い〟が
有り得るのだろうか?っという試金石に過ぎない
本質的に何かを探しているわけではない

実際、セミナーだの講演会だので人が人に伝えられるのは
「気だ」の、「波動だ」の、何だのと言ったところで結局はノウハウに過ぎない

受講者、生徒はどこまで行っても、お金を払うお客様であることをまず期待される
話はそれからだ

〝セミナー〟だ、〝講演会〟だ、〝ワークグループ〟だ・・・・

まず参加者は大前提として、当然〝何かの〟探求者、求道者である
共通するベクトルがあるからこそ、貴重な休みの日をお金を払って
遠路はるばるやってくる・・・だれもが〝いつかどこか〟の探索者、ハンターだ
エクスプローラーだ、プレデターなのだ・・・だから同志のお友達も見つかりやすい

確かに生きている以上、いろいろな出会いはこれからもあるだろう
誰かと会っている以上、それはその時が「いまここ」だ

しかし、いつも、どこへ行ってもそれが〝いまここ=終焉の地〟だとしたら、
果たしてわたしは〝どこかに行った〟といえるだろうか?

〝いまここ〟は〝いつかどこか〟の踏み台ではない・・・・
〝いまここ〟を踏み台と考え、〝通過点〟と考え、〝単なる手段〟だと定義している以上
わたしたちは
足下に目を落とすことはない・・・・
愛の為に立ち止まることはない・・・

喩え宇宙の果て、世界の果て、生死の境界を超えた彼岸、に行ったとしても
わたしがいつも〝いまここ〟にいるのだとしたら、「行った(逝った)」といえるだろうか?

それは、ハタから見た・・・、
   他人、世間、外野の野次馬・・・から表面を見下ろした視界に過ぎない

自分の目に映っているもの、感じているもの、体験している者は、
それは誰でもなく、絶対的に私 (・・・セルフ?エゴ?) だけだ

  それが「客観的に正しいかどうか?」は副次的な問題に過ぎない・・・
 私にとって「生の手応え」「確かな保証」はそれ以外にどこにもない・・・

誰にどんな風に評価されようが、理解されようが、誤解されようが
それはあくまでも二次的なことだ
その他人からの評価次第で、私が社会的に得しようが、損しようが、
その〝評判〟の享受者もまた、やっぱり絶対的に私だけなのだ・・・

だから、We are all alone なのだ


〝いまここ〟とは〝素〟であり、セルフのホームグラウンドだ
〝素〟を字割りするなら〝主(あるじ)〟が〝糸(意図)〟の上にいるということだ
そして意図とは作為のこと、       ・・・欲望が産みだした世界
      ・・・では、その上に乗っかる〝主(あるじ)〟とはなにか?

それがセルフなのか?聖書の神なのか?   ・・・正反対の二つの解釈!

そして実際は、この〝聖書〟が・・・
 〝聖書の神〟が、二千年間、この地球を支配してきた

セルフとは内なる神であり、内面の子供だ
彼こそが
ゴリアテを石つぶて一つで倒すダビデ王で、
裸の王様を笑う〝愚かな〟少年で、
弁慶の主となる牛若丸だ (日本のダビデ王は〝倒す〟のではなく〝上に乗った〟)

ほんのちょっとした〝シフト〟の問題・・・
しかしここには
絶対的な壁、天と地ほどの隔たりがある・・・、致命的な差がある・・・

幸福追求のロンド(無限の堂々巡り)が大団円を迎えるポイント・・・分岐点は
ここにしか無い様に思うのだ