La Belle Dame Sans Regrets /悔いなき美女
アップし終えた直後、守城佐恵子女史からチャットで
福島菊次郎氏の訃報を聞いた
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福島菊次郎さん94歳=反骨の報道写真家


悔いなき美女の歌詞の内容を和訳してみて、わたしの中では
守城佐恵子さんを連想したので実は驚いていた・・・  彼女を
「嘘つき」っと指摘したいのではなく、「悔いなき美女」っと言う
曲はすべての女性が隠し持つ魔性というか、すべての男と女と
の間には、恋愛関係に限らず、
「言ってはならず、言わねばならず・・・」という大きな壁が
あるとおもう・・・  この曲はそのあたりを描写しているように
思えたからだ・・・

守城女史には特にそれを感じたので、だから逆に彼女には
アップしたばかりの
悔いなき美女のリンクは送らないつもりでいたのだ

ところが彼女はわたしの思いを翻そうとするが如く
菊次郎さんの訃報を不思議なタイミングで送信してきた・・・

(・・・っといか菊次郎さんの死、それ自体がそういうタイミングだったのだけど)

彼女とふたりで歌舞伎座近くの映画館で
『ニッポンの嘘 報道写真家 福島菊次郎』
を観てきた経緯があったので、彼女が菊次郎さんの訃報を
知らせてくれたこと自体は不思議なことではなかったのだけれど・・・

福島菊次郎さんは宮井陸朗:シャンタン氏とも古い友人だったそう
なので最近シャンタン氏が頻繁に守城佐恵子女史の記事を取り
上げているのを見て、シャンタン氏の正体をわたしなりに感じ、彼との
一年間のFB「お友達」をつい最近切断する決心をしたことも因縁
めいていた・・・・そういえば守城女史とシャンタン氏の
「根拠がないスピ的アセンション情報空騒ぎ」の体質はよく似ていた・・・

28日の11:51がどうたらという騒ぎが終わるまで、実は彼女とも
連絡を取るまいと思っていたが、思えば彼女との連絡が再開する
その前のキッカケはやはり彼女と共通の思い出があったジャズマンの
江藤氏の死を彼女が電話で知らせてくれたのががキッカケだった
・・・これもなんともまた実に因縁めいているじゃないか?

しかし、この二つの訃報にはわたしの中で大きな違いがあった

江藤氏には「お悔やみ申し上げます」だったが
福島氏には「黙祷」っと一言知らせてくれた

わたしは他人との「お誕生日おめでとう」というやり取りが嫌いなので
フェイスブックではお友達機能をなるべく使わないのだけれど、それと
同じ理由で「お悔やみ申し上げます」というやり取りも好きではない

人の死に対して〝申し上げる〟ことなど何もないのだ

こんな人の生涯の尊厳に関わることで何か〝申し上げる〟ことなんか
全部が薄っぺらい・・・

だから「お悔やみ申し上げます」なんていう〝便利な〟言葉は
なるべく使いたくはない・・・  それぐらいならばそんなやり取りを
せざるを得ない人間関係自体をあらかじめ切っておきたい

でも今夜、即座に「黙祷」っと言う言葉を自分自身で使ってみて、改めて
この言葉の意味を考えてみる機会になった・・・

この言葉が似合うのは「戦士の弔い」に対してだ・・・  っと私は思う

特に福島氏の「公共的な義憤の闘い」に対しては、特に黙祷と言うことは
よく似合っていると思う  

    ・・・なぜだろう?

福島氏は天皇陛下に対する戦争責任に義憤を抱いている人だったが
その「義憤」が本当に義として正しいのか?間違っているのか?実はわたしは
疑問視している  当時の大日本国憲法からすれば昭和天皇は戦争責任は
無いと私は思っている



しかし、それでも福島氏には〝誇り高き戦士の尊厳〟を感じる

人間はどんな視点に立つかによって義が違って見えるものだ・・・
だから、その義を互いに通そうと思った時、個人的な憎しみの感情とは別に
戦場で戦士同士が相まみえると言うこともあるのだ

必ずしも〝武力〟による闘いだけが人の闘いではなく、特に
報道写真家の彼の様な〝闘い〟もあるのであって、それは
〝真実を追究する〟というかたちの孤独な戦いだ

〝真実の追究〟というのは、やはり戦いだ

その真実というのがエンライトメントへの求道であったとしても
成仏に至るまでは、やはり
〝すべての追求の終わり〟に達するまでの〝追求の奮闘〟が残る・・・

その求道の旅のどの時点で、わたしたちは果てるのか?  それは判らない

しかし、どの道程であったにせよ、
死とは〝沈黙への帰還〟であると言えるかも知れない

だから、戦士に対しては〝お悔やみ〟という言葉はふさわしくないのだ
〝黙祷〟こそがふさわしい・・・  そう今朝、思いをはせた

〝黙祷〟っとは、いわば時空を越えた戦士たちとのコミュニオンの場であり、
サットサングであるという言い方が出来ると思う

戦士の死へ捧げられる〝黙祷〟という短い瞑想の瞬間においては、
生前のひとと、ひととの〝立場の違い〟〝義の違い〟を超えた沈黙が、
すべてを包み、すべてを赦しの中に融かしてゆくのだ


共感の場、交流の場とは、必ずしも〝お悔やみ〟とは違う・・・

   ・・・〝お悔やみ〟とはむしろ「切り離し」だと思うし「別れの挨拶」だ

    ・・・〝黙祷〟とは、むしろ再会だ

わたしは江藤氏には強い「寂しさ」を感じていた・・・  発狂しそうなほどの・・・

わたしだって、幾度となく今まで、気が狂いそうなほどの孤独感は感じてきたから
ある意味での「共感」は感じる・・・

しかし、映画「ニッポンの嘘」を見終わるととても爽やかなものを感じた
映像の中でもうすでに90代の老写真家の愛犬との淡々とした生活の風景は
たしかにわび・さび(侘・寂)は感じるが、義憤のもとで戦う写真家としての
彼の姿は、とても90歳とは思えないほど矍鑠としておられ、惨めったらしさも
寂寥感も、まったく感じなかった

守城女史と映画館を出た時、わたしの心に残ったのは
「信念の正誤は生き様のまっすぐさとは無関係だ」っというメッセージだった

同じ映像を見終えた守城女史も、確かにいつも福島氏のような「世間の無理解に
敢然と戦う女革命家」ぜんとしてはいるのだが、あにはからずやその時横にいた
彼女は〝我が意を得たり〟という顔をわたしに向けていた・・・
が、しかしわたしは内心「おいおい・・・」っと思って彼女を見ていた・・・

「悔いなき美女」という曲の光景のように
わたしと彼女は福島氏のドキュメンタリー映画の上映を仲立ちとして
ダンスを踊ったわけだが、
そのステップには微妙なズレがあった・・・、食い違いがあった・・・・
互いの心境は違っていたのだ・・・

「本当に後悔はないのかい?」っとわたしが尋ねるならば、当然彼女は
「無いわよ!」っとキッパリと答えるだろう

いや、
そんな宣言をさせるなら、彼女はますます〝女革命家〟になってしまうだろう
わたしはそんな野暮な問い詰めはしてはいけないのだ

黙って彼女の横顔を見ていればいい
すべての女性たちの横顔には「物憂げな何か」が隠れている
すべての男達には彼女たちの「その何か」を暴く野暮は赦されていない

・・・だからわたしは
「ああ、そうかい?」っと言ってもう適当な言葉を探すのを止める