前記事の補足的な記事です

前記事のタイトル「トモダチ以上、不倫未満」っというのは
どなたでもご存知の「トモダチ以上、恋人未満」という常套句を
もじって創った言葉です

つまり〝お友達〟というのは軽いというかプライオリティー(重要度)が低い
しかし、〝恋人〟となるとそれは「男女の肉体関係を含んだ〝特別な〟」関係を
意味するので、その中間的な揺らめくあやふやな男女関係を称して、
わたしたちはそれを「トモダチ以上、恋人未満」と表現する

しかしこの常套句は凡庸な鈍感さから発生してきていると思う

本当はOSHOも言う様に、友情とは恋愛を越えている至上の関係だと思う
だからこそわたしにはどうしてもフェイスブックの「お友達」システムには
抵抗感を感じてしまうのだ

「お友達」を切断したからと行って親近感が消え失せたのでもなければ
敵意や嫌悪を抱いているわけでもないが、連帯感に餓えている今の社会では
この「お友達」リストからの削除はどうも決定的、致命的に受け取られてしまい
とても残念だ

・・・しかし、禅宣言でOSHOが語りはじめる時まずサニヤシン達に向かって

        「友よ」

   っと語りかけている事は私にとっては、この宇宙全体に匹敵する重みがある
   マイトレーヤ(弥勒菩薩)とは、「最良の友」という意味なのだと、どこかで読んだような記憶がある

思えばこの数年間、やたらと美人の奥様達に親しく語りかけてもらう機会があり
とても光栄であると同時に、人妻に対してはやはり肉体関係(恋愛)を期待
出来ないので、チョンガーで寂しいわたしはすねていた

しかし今思うなら、彼女たちが求めていたものは
やはり恋も、愛も越えた友情だったのかも知れない・・・

  ・・・それをわたしは失礼にも「欲求不満の奥様の適度に安全な
    火遊び(肉体関係がない恋愛もどき)相手」として期待されているのか?

        という勘違いしていた、だからその距離感を計りかねていて
        ある時は性欲と自己抑制との緊張感が苦しくて彼女たちから逃げ出していた


いま、ビリージョエルの往年の名曲「素顔のままで」を色々いじって遊んでいる



あれはもちろんいわゆるラブソングなのだが、
あの曲の素晴らしさは
相手への恋愛欲求以上に
相手への尊重の気持ちを強く表現した歌詞にある

大変失礼だが、異性として全く意識出来ない(全く魅力を感じない)女性は
もちろんいるし、
そう言う女性には「性欲と自己抑制との緊張感」など感じず
ヘラヘラと接することが出来るから、浅くはあるが男女の友情が成立出来る

しかしそれは本当に〝男と女の性を乗り越えた〟友情だと言えるのだろうか?
相手を単に「異性として見なせない」「魅力を感じない」・・・

   ・・・だから「恋愛ではなく、友情なのだ」と言えるのだろうか?

性的な衝動がはじめから存在しないこと
性的な衝動を乗り越えて生まれた男と女が、
人と人として信頼しえる関係を築いたこととは全く違うことだと思う


男女の恋に限らず、人と人とが互いに強い情熱と互いの運命を感じて夢中で強く
引き合うことを広い意味で〝恋〟と呼んでもいいかも知れない

そして自分自身の欲求よりも相手のことを尊重したい、デリケートに接したいと
思える気持ちを抱くことを、広い意味で〝愛〟と呼ぶのならば

     では、〝恋〟を経ずに〝愛〟はありえるだろうか?
         〝愛〟を経ずに〝友情〟は成立するだろうか?

フェイスブックの「お友達」にはもちろんそんな真剣な問いなどお呼びでは無い

実際のところフェイスブック民は、相互に「お友達」と呼びつつ、
その動機は
「有力な情報を得たい」と思っているだけ
「枯れ木も山の賑わい」と思っているだけ、
ネズミ講などのような商売で利用し合える関係、
ちょっと退屈している時、めげた時、気休めになる関係、景気づけになる関係
慰め合える関係を期待しているだけで、
それを「お友達」っとフェイスブックでは呼称している

安心、安全な適度な距離感でなければ「お友達」というのは
有害なだけだと誰もが思っている

ここには、
さしたる運命的な引き合いも、胸をかきむしる渇望も
恋も、愛も、真剣な友情も、お呼びではないのだ
だから「恋も愛も経ない真の友情など在るだろうか?」という
鬱々とした問いなど発生しないのだ

そこそこの関心が持てる相手を見つけたなら、ネットショッピングの様に
とりあえずブックマークしてキープする・・・

・・・その為の機能をフェイスブックでは「お友達」と呼んでいるだけに過ぎない