「退屈すること」「焦ること」「孤独を感じること」・・・・

これらは同じ精神状態を違った角度から見た“面相”にすぎない。
本質的には、同じく・・・

「いまここを見逃していること」

「いまここにいたたまれないこと」

が原因で起きている精神状態だ。

・・・じゃあ、なんで私たちは「いまここ」にいられないのか?
「いまここ」以外の人生なんて有りはしないことぐらい、知っているはずなのに・・・

だからこの疑問は、三つに分解出来る。

「なぜ退屈するのか?」
「なぜ焦るのか?」
「なぜ孤独を感じるのか?」

つまりこれらの解答はみな「いまここにいられないこと」への解答と共通なのだ。




「それは体験なんて言うことは出来ない・・・
     なぜならそこに“体験者”は失われているからだ」

                           OSHO「存在の詩」冒頭

“体験者”とは何なのか?

それは
“体験を分別(ふんべつ)している誰かさん”
“体験を価値付け、ランク付けしている誰かさん”

“人生の瞬間瞬間を
「よし、これは重要だな! 貴重な体験だぞ!」
「う~ん、これは大した価値はないなあ、
きっと、もっと価値あるエキサイティングな体験が待っているに違いない!」

                       っと比較している誰かさん”

のことだ。

   “体験者”とOSHOが、ここで呼んでいるのは、この“誰かさん”のことなのだ。


  さて、このことが明確化すると、もうあなたは一つの明晰な事実を発見出来るだろう。

つまり、人生の瞬間瞬間に
起きていること、体験していることを・・・・

・・・・比較するということは、
   ・・・・価値付けするのは

   恐ろしい自己分裂を生み出しているのだと言うことを!!!!!


あなたがもし、成功法則や、自己実現の法則を体得したい。
ビジネスパーソンとしてのスキルをアップしたいと願っているとしたら、
この事実は非常にあなたを困惑させることだろう!!!

  なぜなら、ビジネスマンとして、社会人として成功を得る上で、
マズ何よりも、いの一番に大事なレッスンは、
あらゆることにプライオリティー = 価値判断の
順位づけをすること、比較することだからだ。

「何を切り捨て、何を優先するか?」

その訓練の成果こそが、あなたを価値ある、実りある人生に導くと
誰しもが言う・・・

蝶や花に見とれることよりも、
踊ること、呼吸することに注意深くあることよりも・・・

  「おまえはバカか?とうぜん億万長者になることの方が価値がある!」とみんな言う


だがOSHOはきっぱり言っている

「自己実現は必要不可欠だ、絶対必要不可欠だ!」

「だがしかし、
 それはあなたがお金や権力を得て
  社会的な成功者になることが必要不可欠だという意味ではない」

「自己実現とは本来エンライトメントのことだからだ」

もし、マーフィーの法則本や、斉藤一人の本と、OSHOとを比較しながら両方の読者だという人が
いたとしたならば・・・・  このOSHOの言葉は、実に残酷かも知れない(笑)

別にOSHOが、あなたがビジネスマンとして成功することに反対しているわけではない。

ただし、まったく別の要素が、正反対の要素が、そこにはあると言わざるを得ない。


     「地球か・・・  何もかも、皆懐かしい」

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納谷五郎氏が亡くなったことが発表される一週間ほど前、
私に虫が知らせたのか?
私の胸に、突如彼が吹き込んだ沖田艦長の名台詞がこみ上げてきた。


ここでまたこのセリフを皆さんと味わいたい

  ---あれや、これや---  ではなく、

  ---何もかも---  というところを・・・・

  よく、人は死に際して走馬燈のように人生の全てを見るという。

わたしは一昨日、上記のような気付きを得た時、これによく似た体験をした。

つまり、

「人生の瞬間瞬間は、どれ一つとして相互に比較し得るものではなく、
皆等価なのだ、いや、等価とまでは言えなくても、少なくとも大小を付けることなど出来ない」

・・・そう、しみじみ感じた時、突如、人生の今までの体験が、ひとつひとつのシーンが
並列に並びはじめ、そして脳細胞のニューロンのように相互が自動的に結びついてきた

              ・・・そのような感覚に襲われたのだった。

「走馬燈のように」という特急列車のような表現は、だから私にとっては正確な表現ではなく
すべての人生の体験は、

   ・・・むしろじっくりと、ゆったりと、
    ・・・“なにもかも”、並列に、
        今この瞬間瞬間の中に存在している。

      そして、絶え間なく相互に交信している・・・・

           そんなイメージの方が、わたしの感覚にはしっくり来る。




こんな感覚の中にあって、気がつくのは「体験者など、いない」ということだ。

もし、人生全ての瞬間瞬間が“等価”で、“今この瞬間”に存在するならば、・・・

一体何で、焦る必要があるだろう?

一体何で、退屈を感じることが出来るだろう?

一体何で、自分というのが孤立した孤独な“体験者”だなんて意識出来るだろう?


すべての光景はスローモーションのように、ゆったりと、ゆっくりと流れはじめる。

まるで死刑台のエレベーターのように・・・

すべては、終わるのだ

<わたし>は、終わるのだ



人生とは、オアシスとオアシスとの間を渡り歩き、流離う砂漠なのでは決してない

オアシスという瞬間の安らぎ、くつろぎ、恍惚・・・
そこへと旅し、  やっとの思いで辿り着いた、そのオアシスが
蜃気楼のように枯れたら、また別のオアシスを目指し、
長く、苦難の、乾いた旅・・・・

点から点へと旅する、気の遠くなるような時間という“線”の旅

  それが人生なのではない
  それがあなたや、わたしの人生では、   ・・・なかったのだ


オアシスとは、いま、生きているこの瞬間、瞬間なのだ。

もし、あなたがそれを疑うのならば、一分間呼吸を止めてみればいい
一分後、この瞬間瞬間がオアシスだと言うことを、すぐに実感出来るだろう

さらに三分後にはチアノーゼを起こして天国にたどり着ける(笑)