OSHO

「神にはこの世界をお造りになった究極の目的があるのだろうか?」

あるわけがない。

なぜなら、この「究極の目的」が提示されたなら、即、その目的に対して、
「ではなぜ、その様な目的を神はお持ちになったのか?」っという質問を
くっつけることが可能だからだ....

なぜ?...なぜ?...なぜ?...

そう、いたちごっこだ!!

物質の根底を支える、究極物質はあるのか?...ん?  ヒッグス粒子???

〝粒子〟????   では体積と質量があるんだね?

ではそのヒッグス粒子の体積と質量は、一体何で構成されているの?

なぜ?...なぜ?...なぜ?...

そう、またもやいたちごっこだ!!

つまり〝底なし〟である。

だからもし、〝根底〟を求めるのならば、微分するのでも、積分するのでもなく、
「それ、そのもの」を答えとせざるを得ない....

  つまり「I am that I am」だ!

もしここからひとたび、また探求の旅をはじめれば、果てしない〝底なし〟の旅と成るだろう。

だから、「在る」ものは、ただただ、そこに  ...「在る」。

それ以外、一体何が宣言出来るというのだ!?

そもそも、一体何を宣言する必要があるというのだ!?



    ....ただしかし.....

この〝究極の旅〟から、    もし?生きて帰ってこれたとき、
その旅とは、けっして無意味ではないと...   私は思う   ...思いたい。

それが「アナッタ」の意味なのだと思う

OSHO

動物たちは天国にいる。かれらは常に天国の住民(無我)だ。

だがしかし、彼らにはそれ以外の選択肢がない・・・・・
  それゆえに彼らにはエンライトメントの可能性がないのだ。

わたしたち人間、人間だけが、この世を地獄だと錯覚出来る。
だが、それゆえに私たちにはエンライトメントの可能性があるのだ。

まだわたしの肉体に時間があるなら、
そしてわたしのマインドが、
この底なし沼の狂気に飲み込まれることがなければ、
今度はそのあたりについて書きたいと思う。