以下、もんじゅ まさきさんの投稿した
『信じることをやめなさい』苫米地英人、引用文

 日本人が奔放な姿を急速に失っていくのは、明治維新からのことです。


じつは、このとき

明治政府は、大がかりな仕掛けを用意しました
日本神道という、人工的に構築された宗教の仕掛けです。


 一般に、神道は多神教であるといわれています。


たしかに古神道は、森羅万象に神は宿るという思想に基づいた
原始宗教であり、それが八百万の神を崇める日本人の精神を
育んできました。


 ところが、
明治政府によって生み出された国家神道は、
伝統的な古神道の衣をまといながらも
宗教としての方向性はまったく逆を向いています。


なぜなら国家神道は、
天皇を唯一の神と崇める一神教として成立しているからです。


ここでは多くを語ることはしませんが、

国家神道は明らかにキリスト教をモデルにして

組み立てられているといわなくてはなりません。


 その狙いは、
国民統治の磐石などシステムを構築することにありました。
国民を総動員し、国家的事業を成功させるために、
これほど都合のいいシステムはありません。


 国家神道には『聖書』こそありませんが、
人々が天皇の考えを絶対化し、己の身を削ってでも
天皇の目的を遂行するという考えに日本国民を導いたからです。


 その行き着く先が、
「一億総玉砕」や「打ちてし止まん」に通じる
軍国主義だったことは、万人が認めるところでしょう。


〜〜〜〜〜〜


 明治以降の軍国主義、全体主義を生み出した主導者たちは、
ある意味で彼らなりのコーチング・ビジョンを強烈に保ち、
着実にそれを実現していったといえるかもしれません。


 鳩のように柔和であるだけでは、
狡猾なマインドを駆使するやからたちの策動から
逃れることはできないということ。


だから、よくよく目を見開いてその仕掛けを見抜かなければならない。




OSHO_ Anybody Who Gives You a Belief System is... 投稿者 maneel-katal

オレは何も信じない

何かを信じ込むことは 信条主義であって 頑迷さ以外の何ものでもない

同じくもんじゅさん投稿からの引用
黒澤明監督の直筆ノートより

人間は、間違いばかり起こしているのに
「これだけは絶対間違えない」だなんてどうして言えるんだろう?

それも、もう間違えたらオシマイだと言う様なことにさえ
どうしてそんな事が言えるんだろう?




 わたしはただただ 自分自身を信頼している

              ・・・・信頼と信用は全く違う

 わたしは今後もいろんな過ちを犯すだろう、

でもそれは
自分の〝謙虚さ〟を
単純にアピールしたいのじゃない・・・
自分が相対的な存在だからと言うのが原因による間違いなのではなく、
この世界は相対性に満ちて、流動的だから、誰にも未来は断言出来ないよね?
・・・単にそれだけのこと

自分自身の愚かさに嘆くことは、これからもあるだろう

自分の傲慢が人を傷つけてしまうこともあるだろう

でも、その時、その都度、
自分は精一杯の判断を下していることを
自分自身は知っている

過去から未来まで、
自分の愚かさをも含めて、嘆きをも含めて
それらのすべての沈黙の(裁かない)目撃者とは、
この世界でたったひとり

     ・・・・自分自身なのだ



私にとって、
何かを信じ込むこととは愚かさ以外の、無知と傲慢以外の、何ものでもない
なぜなら自分自身に対してすら、何一つ信用していない、からだ

    
自分自身に対しては  ・・・ただただ信頼があるのみだ

過去いろいろな信念に取り憑かれ、熱中し、
あまたの間違いを犯し、人に迷惑を掛けてきた

  穴があったら入ったまま、もう二度と出てきたくはない・・・
         ・・・そんな自分自身を、いったいどうして信用できるだろうか?

  明日をも知れない命のわたしが、
               いったいどうして誰かに何かを保証できるだろうか?

でも
誰もが、自分の中でのベストを尽くして、よかれと思ってやっている
      ・・・・それを誰が裁けるだろうか?  ・・・・誰が赦すというのか?

   ・・・自殺してしまった人すら、自らの安らぎを求めてした行為なのだ
     如何に自虐的な人間でも、その最奥では自らの幸福を望んでいる
     そしてそれに従ってその都度ベストと思える選択をしているだけなのだ

     誰もが自分自身に対しては
すでに無限の愛を持っている
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                  あなたは999人を殺した大量殺戮者かも知れない・・・
             だったら自分自身を愛せないのだろうか?・・・自分自身を赦せない?



   ・・・そういう意味では、
    私は何も信用(believe)しはしないが、すべてを信頼(trust)している



    だからこの先に、何一つ確かなことはないが、リラックス(委ね、寛ぐこと)は可能なのだ