円周率、3.1415....という定数は何を意味するのか?

たぶん数学における最大のエニグマ(暗号)といっても過言ではないだろう

それは円周/その円の直径である。

円というのは二次元上の図形なので、これはユークリッド幾何学の分野なのだけれど
これは全くゆがみのない平面、全く線の太さが存在しない直線が永遠とつづく...
っといったような現実離れした仮想的な話なので、小学生の時から数学って嫌いなのよね
っといったおばちゃんとかには取っつきのいい話ではないだろう。

なのでせめてわたしたちのなじみのある、この三次元の世界、(非ユークリッド幾何学)で
たとえて考えてみよう。


    つまり円ではなく球でイメージしてみる。
  もっとも代表的な〝球〟といえば、我らが母なる大地、地球でしょう。

実際には地球も正確な、完全なる球体ではなく....

    「地球の極半径は6,356.752km、赤道半径は6,378.137kmです。」

6300km以上の半径に及ぶ巨大な球体が我らが地球であり、それは中心から北極や南極へと
伸びる半径よりも、(24時間で一周する自転によって)ビミョーンと伸びた分だけ赤道方向への
半径は21km膨らんでいる。

  まあそれだけデブッちゃったお母さんではあるが、そこは目をつぶって考えてみよう
これだけ沢山の子供たちを産んでいるのだから、多少のプロポーションの崩れは
無視出来る範囲のやっぱりイイオンナ=現役なんじゃないですか?未だに....

さて、そうであれば、地球のどこからスタートしてもその中心を貫き、
正確に反対側に辿り着いたならばそれが地球の直径であり、そのスタート地点から
まっすぐ世界一周してきたら、それが円周(すわ、球周)ということになる。

たとえば東京の裏側はブラジルあたりで、江戸っ子がお祭り好きなのとブラジルといえば
カーニバルで有名なのとは偶然ではないと思う。また、日系の移民が多いことも....
            ....つまり東京とブラジルとは地球の鬼門と裏鬼門の関係なのだ。


  「直径とは何か?」と問うならば、それは例えれば
    「地球をぶっ通して向こう側に突き抜ける片道切符の地底探検」のことであり、

  「円周とは何か?」と問うならば、それは例えれば
    「地球をぐるり最大限に一周する世界旅行」のことである。

これで、一般的にΦ(ファイ)と言う記号が「(パイプなどの)直径」を表記するのに使われる記号で
その記号は〝そのまんま〟の図表表記であることがわかる。

丸をタテに貫く直線....  やだ、  これって...  そう、男性器と女性器の結合、
〝セックス〟のシンボルではないか!?

さらにこれを立体視覚化すれば、つまりはトーラスということになる。

torsionanimated
なぜ?直径とは〝片道〟であり、円周が〝往復〟なのか?

割り算、つまり〝比率〟を問題にするならば、〝片道〟同士、あるいは〝往復〟同士を
比較するべきではないか?

それは、「直径」は「直系」に通じているからだ・・・・  つまり「男系男子」の象徴である。
となると「円周」とは「女性原理」「母性」に通じていると言うことになる。


   円周....とは、つまり〝原点回帰〟であり、〝原点回帰〟とは、つまり〝ゼロ〟のことだ。

〝ゼロ〟...つまり〝無〟とは、ナッシング(まったくのすべての非存在)ではないことが、
ここにはっきりと理解出来るだろう。

あなたは世界一周の旅がプレゼントされたら、それを...

 「なーんだ、どうせ結局は自宅に帰ってくる事になるんだろ?」っと、
   無意味に感じたりはしないだろう。

たとえ仕事が忙しくって、
実際にはそんな旅をしているヒマなんか無いかもしれないが、
それでもそれをナッシングだとか無意味だとか感じたりをしないだろう。

そして実際に世界一周してきたならば、帰宅して自宅の玄関に帰り着いたとき、
きっと多くの思い出を持ち帰っているだろう。
  〝原点回帰〟とは〝無〟ではあるが〝無意味〟では全くない。

ましてや、それが〝一周旅行〟ではなく、〝ブラジルへの移住〟であるならば、
もはや「思い出」どころではなくなる。  ...一世一代の大決心になるだろう。
  これが男性原理だ。

   楠木 正行(くすのき まさつら)の辞世の句


      帰らじと 

      兼ねて思えば梓弓(あずさゆみ)
      亡き数に入る (なきかずにいる)
      名をぞ止むる (なをぞとどむる) 

これが、直系、男性原理の最たる表現だ。  ....カミカゼの原理である。

勃起した男性器とは、それはタロットのWANDであり、リレー競技のバトンである。
それは〝伝える〟(メッセージ)ということだ。

このブログでは「オナニー(自己抱擁)の素晴らしさ」をエントリーしたが、
それを基礎とした素晴らしいことが〝わたしの何かが伝わっていく〟という
素晴らしさだ。

では、この〝何か〟とは何か?   〝わたし〟とは何か?

〝わたし〟とはどこから発生し、それは〝何に〟伝えられるのだろうか?

   それは紛れもなく〝遺伝子〟のこと、〝血液〟のことだ。

   そこには紛れもなく、〝無〟から〝有〟が生まれた動機が記憶されている。

血液とは、見方によっては実に儚い、弱々しいものだ。

それは人体という弱々しい器から放り出されれば、一瞬で死ぬ。

体外から放り出された血液ほど、悲しい姿、痛々しい光景はない。

それは血管という海から放り出された魚だ。

一瞬で酸欠を起こし、もだえて、そして死んでいく。
それは延々とした宇宙の営みが、そこでピリオドを打たれてしまう瞬間だ。


      でもだからこそ、そこには〝絶対的価値〟がある。

   わたしたちの〝父〟は、間違いなく、求めた。
           〝母〟を、求めた。  それは間違いない。

女は、感じる。

たとえその場において荒々しい、暴力的なものを感じたにせよ、
                          それを含んだ上で・・・感じる

充血し、直立したペニスに
男の「求める情熱」を....

そして女にとって、それは確かな事実であることに変わりはない。
例えその場の女にとっての自覚が、意に沿うものか?否かに関わらず...だ。

結局のところ、〝それ〟が自分の体内で新しい鼓動を打ち始めたとき、
女は覚悟を決めなければ行けない

その〝伝わったもの〟を育んでいく覚悟を....


命とは、
無から有が生じた瞬間から、気の遠くなるような悠久の時を旅してきた。
伝えられてきたものだ。

それは無数の父が、無数の母にバトンタッチされてきたものだ。

女に、子供が授かったとき、そこまでのプロセスは女が記憶しているだけのものではない。
そこには無限のプロセスが内在しているのだ。

女は子供の命を感じるとき、脈動を感じるとき、〝それ〟を感じる。

だから、女は〝バカだ〟と罵られながらも、〝それ〟を否定出来ない...英知がある。


その〝割り切れない気持ち〟の数値化円周率だ。

πとは父の精液であり、πとは母の乳房のことだ。

父は死に、そして母も死に、そしてわたしも...いずれは死ぬ
しかし、またあらたに、〝わたし〟の何かが、〝もし〟伝わったのならば....
この儚い世界で、また新しい器を得て、温もりの中で確かに何かが伝わったのならば
〝わたし〟は生き続ける....  母のゆりかごの中で...

そして、πとは.... 宇宙の恍惚のことであり、  あなたのことであり、わたしのことだ。

グリークのペールギュントという戯曲を思い出す。
この物語の最後、ソルヴェイグの子守唄を....

主人公は旅をし、旅をし、そして流れ流れた先に、母に似た女、ソルヴェイグに
抱かれて、彼女の謳う子守唄(ララバイ)を聞きながら死んでいく