これはD・カーネギーがその著作の中で紹介していた言葉だ
シャンタン氏の話によると
「OSHOは『カーネギーは駄目だ』といっていた」そうだ

私はなるべく人の言葉を〝ブランド〟ではみないように心がけている

ただ、個人の持てる時間は限られているから
〝ガチ〟なものを優先的に目を通していると言うだけで
その結果、OSHOやバシャールの言葉の引用が多いと言うだけだ

カーネギーは私の大嫌いなロックフェラーを称賛していたりもしているが故に
私はカーネギーの言葉には一時集中してみた

彼の様な〝成功哲学系〟は、おもに雑食型が多い
つまり、「何でも有効と思えるものは取り入れる」情報屋さんなので
OSHOが「駄目」といったカーネギーが、OSHOの言葉を引用しても
何の不思議もないのだ

何事も「ラベル、レッテルでものを見る」事こそが
まさしくOSHOが戒めるところではないのだろうか?

わたしは、ホームレスのオジサンや女子高校生が
大宇宙の真理を口にすることだってあると思っている


私たちはあまりにも沢山の〝前提(ラベル・レッテル、固定観念)〟に囲まれて
ガチガチに生きている

なぜなら現代社会は日々刻々と複雑になっているからだ

覚えなければいけないルールが沢山あるし、
積み重ねざるを得ない経験率が多い


のんびりとした見通しが良い田舎の一本道ならば、ドライブしていても
遠くまで安全を確認しながら運転出来る  ・・・しかしやや退屈なのだけれど

都会のゴミゴミとした道は一瞬の脇見が事故の原因になる
しかしそれだけ都会は良かれ悪しかれ刺激も多い・・・

・・・「良かれ悪しかれ」というのは、このスピード感のある都会の現代生活は、
神経をすり減らすものだけれど
この〝疲労〟は建設的、創造的方向にもなりえるし、破滅的にもなりえる

  それゆえに多くの人々は、〝チャンス〟を求めて都会へと向かうわけだ
   ・・・マインドは建設的、創造的方向にもなりえるし、破滅的にもなりえる

マインド無しにビルディングは建設出来ない
マインドが瞑想において〝邪魔者扱い〟されるのは
瞑想とはアーキテクト(建設者)とは正反対だからだ・・・
・・・それは自分の今ここにいる大地に直接触れることだからだ


わたしたちは葛藤に蝕まれている時だけ、マインドの虜になっている
マインドは破壊的に作用する・・・

    ・・・・カーネギーはそれを指摘しているのだ


では、葛藤はなぜ起こるかと言えば、
今この瞬間の自分と、過去や未来の自分との比較から起こる

    瞑想において「いまここ」が強調されるのはそれゆえだ

  わたしたちは、もはや遠い昔の田舎の一本道をドライブしているわけでもないのに
   「いままではどうだったか?」とか「これからどうなるんだろう?」という
   悩みに犯されてしまう

   そして、自分の現状を嘆く

今月上映されはじめた「ターミネーター・ジェネシス」でサラ・コナーは、
過去と未来との板挟みに遭って今この瞬間の判断に悩むシーンが多く出て来る

わたしたちは過去や未来のヴィジョンが鮮明であったなら、如何に便利だろうか?と
思うかも知れないが、実際は〝ガチな〟過去や未来のヴィジョンというのは
私たちをがんじがらめにしてしまうのだ


おおきな地震が多く、「火事と喧嘩は江戸の華」、諸行無常の観が強い
私たち日本人が、明日の戦場をも脇に置いて一服の茶を味わう
茶道や禅の文化を育み、〝一期一会のもてなしのこころ〟を
大切にしてきたのは偶然ではないとおもう

アメポチ統一教会の自民、創価公明は、
アメリカCIAの指導の下、何十年も掛けて「特亜の脅威」キャンペーンをやってきて、
いまその〝仕上げ〟にかかっているが、
もし明日、3.11クラスの巨大地震が東京を襲うと明確に判ったとしても、
わたしたちはこんな〝改憲議論〟やら〝新国立競技場議論〟やらに
かまけているだろうか?

明日東京が壊滅するのに安保議論???
たぶんそんなことよりも、誰もがこの24時間をどう過ごすかと考えるだろう

・・・私が言いたいのは議論のプライオリティー(重要度)のことではない

   未来で間違いなく言えることは唯ひとつ!
   個人にとっても社会にとっても、
   一寸先はすべての前提がひっくり返るかも知れない
と言うことだ・・・

   ・・・・その無常観のなかにこそ本当の日本人らしさが有ると言いたいのだ

   一寸先は闇・・・
  であるなら、
   一寸先を光で照らす以外に私たちに本質的に可能なことはないのだ

   ・・・そのことを忘却した瞬間から、
     わたしたちは葛藤の迷路の闇に彷徨うことになる

         ・・・「中国が攻めてくるかも?」という不安の虜になる

  わたしは「中国は攻めてこない」という予想や憶測、保証をしたいのではなく
  「そんな事を言うならば、すべてのすべては一瞬先も保証されていないよ」
  っと、いっているのだ


囲碁や将棋やチェスならば、何手先まで読めるかが勝負を決するが
実際の人生は、小さなゲーム盤とその中でのルールを遙かに超えた
複雑な要素が絡み合い、蠢いている

この地上というのも確かに〝小さなゲーム盤にすぎない〟ともいえるし
その上での〝新国立競技場建設〟も大切なプロジェクトだとは思うが
あくまでもそれらも私たちの人生にとって〝あさって〟のことだ

もはや田舎の一本道を走っているのではない以上、
私たちは〝あさって〟にこころを蝕まれている余裕など無い

もし次の瞬間、ゲーム盤がひっくり返されてしまうのなら

〝あさって〟のことで葛藤していた時間というのは
               如何に無駄だったのか?


               私たちは痛感させられることだろう

ゲームとはあくまでも
深刻に葛藤すべきものでも、
悲嘆すべきものでも無く
楽しむべきものだ

もしわたしたちが
深刻さに悲嘆し、虜になっていたなら、
きっとそれは大概、ゲーム盤という「過去や未来のマトリックス」に
目が釘付けになっている時だろうとおもう