質問

OSHO、しかし結局のところ、生は悲惨ではないでしょうか?


それはあなた次第だ。

生そのものはひとつの真白なキャンバスだ。

それは何であれ、あなたがそこに描くものになる。



「スプーン曲げが出来る様になりました」っとウキウキしていた人がいた

「玄米正食という究極の食事法と出会いました」と電話してきた人がいた

「日本語の五十音の中に宇宙の真理を見いだした」と言う人がいた

誰もが、人生に何かのプラスになる事を探し続けている


真っ白なキャンパスのままではつまらない
だからいろいろな色彩と線で、
自分の人生を彩っているのだろう

でも、「知る」ことには常に責任が伴う
全くの単純な「良いだけ」のことなどない

何かを「知った」時、その周辺には無数の新たなる未知が広がる
一歩「知」に踏み出すと、そこには無量無辺の「無知」がある

基本的に「知る」こととは、人生を忙しくさせる
それは探索するべき事に無数の枝分かれ、選択肢を提供するからだ


 そこで疑問に思うことは、
  本当に「知る」ことが「知らない」ことよりも価値があるのか?
   ということだ


本当はソクラテスが言う「無知の知」に立ち止まった時に
人は幸福と安らぎを見いだすのじゃないだろうか?

この数ヶ月のあいだよく思うのはヘレンケラーのことだ
視覚や聴覚がなかった彼女より
私たちの方が本当に幸せなのだろうか?

もちろん、今の私たちは視覚や聴覚の恩恵を知ってしまっているが故に
もし視覚や聴覚を失えば狼狽えてしまうだろう、不幸に感じるだろう
それはそこに比較が存在するからだ


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私たちは知る事、何かを会得することに興奮を覚える
人生がまた一つ向上したと思って喜ぶ

・・・・でもそれは本当だろうか?