私は正直言って彼の文学も思想も、詳しいわけではない。
ただ、非常に興味だけはあった

かれのボディービルディングへの傾倒は、同じ男として
理解出来無いわけではない。

男には多少なりともマッチョへの憧れはあるからだ
でも、さらにそれに飽きたらず自傷して血を垂らすことを
美学と感じた当たりには、ちょっと異常性を感じていた。


でも最近想うのは、

 「人間は自らの温かい血をポタポタ垂らしながらでなければ
  本当に人生から瞬間瞬間、学ぶことも感じることも
   無いんじゃないだろうか?」

っていうのはあるかもしれんなと言うことだ。

そして、昨夜瞑想していて、ちょっと興味深いヴィジョンが飛び込んできた。

 ☆  それは、私自身が第一頸椎あたりから幽体離脱した感覚だった。

江戸時代ぐらいまでは斬首というのは珍しくない死刑方法だった。
切腹も名誉死であって、単純な刑罰とは違うが、最終的には
死に至るのは腹を切った出血死ではなく〝介錯〟つまり頸椎の切断によってだ。

三島も最終的な死因はきっとそうだったのだろう

〝死〟というのは、最終的には誰にとっても避けられない人生最大のテーマなのだが
それゆえに、(そのお陰で) 私たちはこの人生で経験しうる全てに対して
相対した(客観視した)立場に立つことが可能だ。

    死を背景に背負うならば、
    人生すべてのことを冷静に (シャープに) 見ることが出来る


社会が〝死〟というものから、ことさら私たちを遠ざけようとするのはそれが理由だと思う。
私たち自身も気がつけば死という現象から顔を背けるようになっている

頸椎の一カ所を〝出入り口(PORT)〟として自らの肉体経験を相対して眺めていた私は
そのバックグラウンドはさかめく光の洪水の中のような感じであり、また、つい先日
東京は大雪であったが、まるで白銀の世界に、この三次元の世界が閉ざされている
かのようでもあった....つまり、この世界は無限につづく莫大な雪に覆われた
小さな箱庭のようだった。

この「無限につづく雪」というのが、宇宙戦艦ヤマトの重要な登場人物である「森雪」
の名前でもある・・・  つまりこの〝白銀の無限世界〟こそが、魂の世界であり
〝タキオン〟の世界なのだと言うことではないか?


   その点、先日「波動エンジンの正体は?」という記事を書いたことと、
   昨夜の瞑想体験とは、どやらリンクしているようだ。

肉体の感覚は残っているのに、同時にこの世界から「ログアウト」したような感覚...
なんともファンタスティックだった。

「死」というのは、この肉体からの「ログアウト」なのだとも言えるが、もし、「ログイン」や
「ログアウト」が自由自在に出来たり、あるいは、「ログアウト」していても、この肉体世界を
ある程度(ROM状態でも良いから)観察し続けることが出来たら、どれほど素敵であろうか?

〝不老不死〟というのは一般的にはこの肉体が永遠に使用出来ること、腐りも壊れもしない
事を意味するが、そんな鋼鉄のサイボーグのような夢を見る必要もなく、私たちは案外完全な
不老不死を手に出来るのかも知れない。  ...それが昨夜私が見たヴィジョンなのかも?


三島由紀夫の死にはシリアスな空気が漂うが、あの人にとっての〝天皇〟とは
この世とあの世とを自由に行き来出来るようになる(仏教用語で言う〝往生〟だが)
その為のアンカー(=錨)の役割が〝天皇の価値〟なのかもしれない。

だとしたら彼はナカナカ面白い可能性の実験をするために命をかけたことになる。

この瞑想体験をしたあと、突如思い出したことがある。

それは25年ほどの大昔に遡る...
初めてバグワン・シュリ・ラジニーシの事を教えてくれたサニヤシンの家に泊まった晩に
ドクタースランプ アラレちゃんのようにわたしが自分の首を〝取り外して〟〝戻す〟夢を見たことだ

   夢の中でわたしはいぶかる・・・  「こ! こんな事をして大丈夫なんだろうか!?」

で、翌朝目を醒ました私はこの不思議な夢を、
泊めてくれたマ・プレム・アニマに語ったのだが、
「あ~~ら!それってとっても素敵な夢じゃない?」っと笑ってくれた。