私たちは常に何かを付け足そうとあがいている
何かを失うのは嫌で、何かを得ることが正義であった

何を人生に残せるか?が重要で
失うこと、忘れ去ることとは不幸なことだという思い込みに
私たちは囚われてきてはいないだろうか?



マルコムXの〝X〟とは「私は誰だ?」という問いかけのエックスだ

つまりこのXにはあらゆるモノが代入しえる
記号か?物体か?人間としてであるならば
ステータスか? ・・・結局の所、このXに何を代入しても
「代入し得るものは全て」 私ではない
    ・・・そんなジレンマに陥るのが〝自己探求〟という永遠の迷宮だ

「指させるモノとは即ち自分じゃない」という当たり前な結論に至るなら
それは「無とは何か?」という探求とソックリであることに気が付くだろう

そこで次は「無とは何か?」を探求してみると、これもまた
「指さしたものはすべて〝無〟ではない」という
これまた至極当然の結論に達する

・・・指さした先に何かが存在すればそれは無ではないからだ

   しかしだからといって何も無い空間を指さして
  「これこそが無だ!」と言えるかというとそれは違う
 ・・・そこには空間の座標が存在するからだ!

何も無いところをどれほど探して、指さそうとしても
そこには空間の座標が存在しえる・・・

もちろん肉眼では見えないかも知れないが

「ここ」 「そこ」 「あれ」 「あそこ」  っと指さしまくったにしても
どうしても私たちの脳においては、空間の座標から逃れ得ることだけは不可能だ

この時私たちは初めて自分の指先をまじまじと見つめることになるだろう

今日、この空間座標から逃れる方法をとうとう思いついた!!!!!


・・・つまりこの 「探求する自分の指先を降ろす」 ことなのだ

両手をだらりと下げて、どこに焦点を合わせることもなく
私は呟く・・・・「これはなんだ?」

そのときわたしは〝無〟を発見できた


つまり、自分自身が〝無〟になってこそ、
初めて私たちは〝無とは何か?〟知りえるのだ