昨日ある友人と電話で話していて、こんな話題になった

  「結局の所、
    本人が自発的に興味をもったものを優先的に追っていくのが
    やっぱり一番成長が早いんだろうねぇ~~~」


今朝ふと思ったことだけれど

人に葛藤がある時というのは、つまり〝ブレている時〟だ・・・
・・・そういうふうに表現し治せるかも知れない・・・

この〝ブレ〟とは、右や左にぶれていたり
前や後ろ、上や下にぶれているときだと思う

過去と未来という「時間軸」でのブレも、その典型かも知れない・・・・




このところ、この「膨らみがある世界=三次元空間」とはなにか?をずっと考えていた・・・
ヒッグス粒子によって解明できたと一時期騒がれていたが、、では空間の最小単位としての
〝粒子〟がどの様なものなのかという私にも解る説明を見かけたタメシがない

「世界は全てが波動である」と多くの人が行っているが、波動=フリークエンスとはつまりは
ブレのことなのだから、これこそが空間の膨らみの源泉なのではないだろうか?

・・・だとしたら世界は人間のマインドの葛藤によって生成しているのだろうか?

少なくとも「いまここ」にピシャリと留まっている時とは「葛藤の消えている瞬間」だろう

そういう状態の時とは静まりかえった純粋意識のみの状態で、目の前に空間はあっても
空間が提示する分離感も、欲望の選択肢も消えていることだろう


  「静止している」 とは、物理的にジッとしているという意味ではなく
  つまり、
    「葛藤が無い状態」「強迫観念が無い状態」
     「あるがままに、ただただ流れている状態」 のことだ

・・・その時、人は〝溺れて〟いない

   鈍感さとはリラックスのように見えるがそうではない
   鈍感さとは自分の中に微妙な「溺れた状態」があるのに気が付かない状態だ


自分の中のアップアップしている必死のあがきに、自分自身が気が付いていない・・・
・・・いや、
かつてはその辛さで、もがきくるしんでいた自覚があったけれど
社会の中に対応しようとする中で、半ば無意識に自ら〝封印〟して、
鍵を掛けてしまった・・・・・・切り捨ててしまった部分がある
                           と言うことではないだろうか?

   わたしたちはそれを、「大人になること」と呼んで正当化してきた

   でもそれは消えてなくなったのではなく、私たちの体内で腐敗し、癌化してしまう・・・

    その「臭いモノ」の封印を解いて、白日の下にさらすのには、
    ありったけの勇気と繊細さが必要なのじゃ無いか?と思う

    ・・・しかしこの〝手術〟〝浄化〟こそが瞑想やヒーリングなのだろうと思う

ただあるがまま、自分でいるために私たちはありったけの努力が必要だ
・・・無意識にしている「溺れるようなあがき」=「強迫観念」に気付くための努力だ


私たちはそれまでは「何か」に指を指す

「そこに何か」がある感覚というのは、つまりは緊張、つまりは違和感だ

              ・・・この空間のどこかを「指さす指」が消滅した時こそ、
                OSHOがいう「究極の死=光明」なのかもしれない