「私とは誰?」

・・・これ程馬鹿げた、ナンセンスな疑問はあるだろうか?

   試しにちょっと周囲の人々に訊いてみて欲しい

     「私って一体何なんでしょうね?」  ・・・っと


誰もがこんな質問を途端に振られたならある人は呆れ、即答するだろう

  「何言ってんのさ?今この瞬間も感じているだろう?」
       「オレはオレ、お前はオマエさ!」

またある人は怒り出すかも知れない

  「オマエ何かの変な宗教にでもかぶれてるのか?」

  「いいトシこいて、まだ〝自分探し〟なのかよ??  頭冷やせ!」

ある意味でこれらの返答は間違っていない

  「アイアム・ザッツ・アイアム=私は私」であり

  「自分探しなんてキリのない堂々巡りなのさ!そんななかで変な洗脳されたりするなよ?」


   しかしこれらの〝正解〟〝正論〟をどれだけその人達が奥深く咀嚼しているのかは
   また別の話だ

周りの人々は、当然の様に人間として生まれ、人間としての自覚=アイデンティティーで生きている

だからこの質問は無意味に見える・・・お互いに人間として生まれ、自分という主体と意思決定は
人間なのだという自覚   ・・・あまりにも明白すぎて疑問が挟まる余地がないのだ


ところが、「あまりにも明白な存在であるはずの〝主体者〟」を、私たちは指さすことが出来ない

オーケー、物体ではなく、具体的な「何か」ではなく「脳内の現象、反応」こそが〝主体者〟なのだ!

じゃあ、「他の誰でもない」「全くのオリジナルな、他の誰とも違う主体者、選択者、決定者である自分」

っと呼びうる〝自分オリジナルの反応、対応、決定〟を何か列挙してみよう・・・・

世界中から天才と称賛されたあなたオリジナルの作品、発明、・・・・
これぞあなただけの真骨頂と呼びうるライフワーク、マスターピース(代表作品)・・・・

 「自分は平凡な人間だからそんなものは無い、でも私はそう言えるべき非凡な人間が一杯居るし
いままでの歴史にも沢山居たことを知っている」  っと答えるかも知れない

では〝非凡〟な人のみが自分自身を持っていて、平凡な人達は持っていないのだろうか?

いや、たぶん誰もが「じぶんは他の誰とも違うユニークな主体者だ」っという自覚を持って
生きているに違いない  ・・・他人から認められるかどうか? 世間が称賛するかどうかは関係なく
「わたしはわたしだ」っと誰もが実感しているはずだ


   ・・・この強い確信を誰もが持っているはずなのに、ではなぜ「私は誰だ?」っという疑問が
     生じるのだろうか?  ・・・それは一時期の単なる中二病なのだろうか?


いや、そうではない・・・   わたしたちはこの肉体で瞬間瞬間に知覚し、感じている
〝わたし〟という主体の正体が、まるで分からないのだ!

わたしが〝誰か?〟〝何か?〟も分からなければ、それが確かに存在しているのかどうか?
さえわからないのだ・・・・

わたしたちにかろうじて宣言できることと言えば、

    「これらすべては、瞬間瞬間に起きてくること・・・・」

          「そして、消え去り、流れ去っていくこと・・・・」   たったこれだけなのだ

つまり、
  「分からない・・・」  それ故の質問なのに
  「何も分かっていなかった」 それが答えでもあったのだ・・・・