「愛」という言葉はある意味最強である

・・・・そこのけ、そこのけ、「愛」のお通りだ!

私たちはそのために他人を抑圧することさえするし
自己否定の理由にさえする

「ああ、自分には何て愛がないのだろう!」

これらの状況は皆
「自分は愛という偉大な何かを知っている」
っという前提がある
だから私は基本、愛という言葉をむやみと前提にして吹聴する輩を
にわかには信じない


動物たちの世界に目を転じれば、彼らには愛という言葉は知らなくても
その一糸まとわない赤裸な営みは、もちろんあるときは残酷で慈悲のかけらもないが
その飾り気の無い姿自体が真の愛らしさを見せてくれる

   かれらには「愛とは何か?」という問いかけも概念もないだろうが
   かれらの生きる姿は、問いかけ、概念化している人間よりも遙かに
   愛について真実を表現している様に思える

「愛」という言語化は、「愛のない状態」を連想させる

それはわたしに
「愛とは何か分からない」「私には愛とは何か解らない」「私には愛される資格がない」という
苦しみを与えた

            ・・・・でも本当にそうなのだろうか?

なぜ、「愛とは何か知らない」はずの動物たちがあれ程にも愛らしく
常に愛を探求しているはずの人間は醜いのだろう?

彼ら動物たちは、なによりもあるがままを生きている・・・そこにそのヒントがあるに違いない
かれらは「愛を実践しよう」などという思惟はない  ・・・たぶん微塵もない

かれらにはモーセの十戒もないし、イエスの言葉も知らないが、彼らは皆
「野のユリ」「空を飛ぶ鳥」そのものだ

つまり私たち人間は「愛を実践しよう」とするまずその第一歩から転落しているのだと思う

わたしたちは“実践者”であるまえに、そもそも「愛を知っているの」のだろうか?

動物たちはまず、自然が与えているすべてを受け入れている、素直に受け止めている
「真心で受け入れる」と書いて“愛”なのにもかかわらず、果たして私たちは
そもそも全てを真心で受け止めているのだろうか?

わたしたちはまず、愛の実践者になろうとする前に、
自分自身の人生を愛しているのだろうか? 真心で受けとめているのだろうか?

・・・そうでなければ、到底「愛を知っている」とも言えない
   わたしたちは「知らない」ことを実践しようとしたとき、
   代用品として信念体系、代用品として強迫観念で行動しはじめる

   ・・・結果、自他を苦しめているのじゃないだろうか?


   わたしたちはまずは、愛について、いきなり実践者であろうと焦る前に
   日の光を受け止める葉っぱの様なレセプター(受容体)であることに
   徹するべきじゃないだろうか?