私たち人間から見れば、
「継続的な自己保存意思性」が見られない存在を
生命だと見なすのは難しい

つまり、たとえば発光現象のようなパッと現れパッと消えてしまう
ものは、何かの物理的、エネルギー的現象としての原因はあっても
それはあくまでも「無機的な現象」にしか見えない

そこに継続的な生命の自己存続の意思が確認出来ないのに
それを生命現象だと、どうして確証を得られるだろうか?


これはあくまでも私たち自身を中心にした生命の定義に過ぎないが
わたしたちは大体、そのことにすら気が付いていない

「生き延びたい!」という強い意志がなくて、知性は生まれないだろう
エサを探す、不要となった成分を糞として排泄する・・・
外敵から身を守り、同種で協力し合う・・・・

こういった「生きる知恵」とその「継承、継続」が、生命に知性をプール=蓄積させてきた

  その最終結果がわたしたちの文明社会だ

SF映画「ターミネーター」や「マトリックス」は、
これらの方法論、手段の蓄積が
ひとり歩きして
私たち人間の当たり前の営みをも冷酷に圧迫してきているのではないか?

                ・・・・っという危惧から生まれてきた映画だ


これらの異常な進化と・・・  ひょっとしたら?の「叛乱」を心配するより前に
わたしたち人間自身が、非常に心配性で、怠惰で、臆病故に、
常にこういう技術の進化に莫大なエネルギーを使ってきた・・・

そして、さらにさらにこういった技術やらシステムやらに依存しようとしている・・・

   ・・・そしてその依存心こそが際限が無く、最後には私たち自身の首を絞めている

              そのことの方がよっぽど身近で現実的な危惧だろう

ロボットの叛乱以前に、すでに全人類を抹殺する為の核が、国同士で睨み合っている事
それ自体が充分すでに脅威なのだ

震える手で世界最終戦争のボタンはまだ押されていないという
すでに妖しげなバランスの元に私たちは今この瞬間も生きているという現状の方が
よっぽど危惧するべきで、その「震える手」を払いのけてロボットが勝手にボタンを
押すのではないか?  っっというのは実を言えば無能で臆病な支配者層の、
単なる責任転嫁の口実なのかもしれない  そしてこの “責任転嫁” の
本当の責任の大元は、こういう指導者をまだ容認している私たち自身なのだろう

3.11の福島第一原発事故のように、結局は政府も東電も、本当に責任を取っている
者はいない  ・・・責任転嫁がぐるぐる回って、うやむやになるシステム・・・
これを望んで、容認しているのは、私たち自身じゃないだろうか?

これが私たち人類が誇る “知性” の正体だ

つまり “根無し草” ・・・それが人間の知性の正体だ