コロイド状のどろりとした物体がそこにあって
それが生物なのかどうかを確認したければ
棒でちょこっと突っついてみればいい

たとえプニプニして弾力があっても
それだけの反応ならばたんなるゼリー状の物体に過ぎない

・・・でも、ビクッと反応してウニウニと逃げ出しはじめたら生きている


生命と非生命っとの境界は何かと言えば
やっぱり自分の意思を持っていると言うことではないだろうか?
そして、その意思である種の形態と秩序を保とうとする・・・

・・・そういう反応をするとわたしたちは

  「お、コイツ生きてるぞ!」  っと理解出来る

これがわたしたちの“生命”に対する実感的な定義であり、
この広い宇宙には、わたしたちのこの実感では到底
生命と思えないような生命現象がいっぱいあるかもしれない


高度な知性のみならず、高級な情緒を持ち合わせた生命体であれば
きっとこの宇宙の素晴らしさ、美しさを堪能していることだろう

その反面、もし、如何なる素晴らしい光景が存在しても
そこにその観察者、鑑賞者、堪能者がいなかったらどうだろうか?

観客が不在の大スペクタクルの宇宙の劇場も、虚しいものだろう・・・・

  ・・・宇宙は観客を必要としているに違いない、でなければ寂しい

  オリオン座の近くで燃える船、タンホイザーゲートのオーロラ・・・・

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それらの光景も、虚しく雨のように流れ去ってしまう

花々は、きっと見てもらいたいに違いない
たとえホームレスの冴えないおじさんでも、愛情深く見つめてもらった時
きっと花は単なる植物の一現象ではなく「華」になる・・・

        自分自身の可憐さをおじさんの目を通して自覚してはにかむに違いない

   ・・・生命とは、
   ・・・・自己の存在を意識出来る者達とは、この宇宙の観客なのではないだろうか?

あなたという堪能者、参加者がこの宇宙に現れるまでにも、宇宙には
いろいろな気の遠くなるようなドラマがあったに違いない・・・

                     でもそれに何か意味があるだろうか?

あなたという参加者がいる宇宙と、いない宇宙とでは、全く違うのだ

あなたもいずれはこの宇宙から去るだろう
でも去ったあとの宇宙は、もう違う宇宙だろうし、
あなたにとってこの宇宙が、もし意味が無くなってしまったのなら
この宇宙にとっても、あなたは意味の無い存在になってしまうだろう

だから反対に
もしあなたがこの宇宙から物理的に去ってしまっても
あなたにとって大事な思い出や、想う家族が残っているのなら
あなたの肉体が朽ち果てて、三次元上での接点を失っても
あなたはこの宇宙から完全に去ってしまったわけではない
そしてこの宇宙から見てもあなたという存在はある意味では残る

人が、友人や家族を作りたがり、子孫を残したがるのは
きっとこの三次元宇宙との絆を残しておきたいからなのだろう

・・・・・・・・

生命とは何かを考えたとき、答えは夜空に有るのかも知れない

  広大な闇の空間=スターバックスが広がるが、ここに星がなければ
   ただの虚しい莫大な闇の空間だ
   ・・・そこに輝く星があった時
    この広大な闇はきらめき、彩られる

  しかし昼間の空で、わたしたちは星を見つけることは困難だ
   闇が広がった世界で、星は輝く

   「わたしは在る」、っという自覚は、 
   「わたしがない」、
    あるいは
   「わたしではない、あなたや、その他・・・」  が、意識出来なければ得られない

   「イエス」には「ノー」  「在る」には「無い」  「そう」には「そうでない」ものが必要なのだ

    この三次元空間とは、まるごとすべて「あなたではないもの」だ

     それゆえにあなたはあなたを実感出来、わたしはわたしを実感出来る


    でも、  もと包括的に言えば

  「あなたを自覚させてくれた」という点では、
   「あなたではないすべてのもの」こそが、「あなたの分身」であるとも言える

  だからひとたびあなたがあなた自身に目覚めた時、
  あなたではないすべてとも、あなたは一体に融合するのかも知れない