わたしたちは世界を見渡す
そして世界を旅し、世界で遊ぶ

そこでふと立ち止まる・・・

   「ところでわたし自身は、一体何ものなんだろう?」

あるものはこんな質問はナンセンスだと笑い飛ばし
また遊び始めるだろうし
またあるものは、この〝妙な〟疑問に取り憑かれて
たちどまり、そのうち頭を抱えてその場にうずくまる

「わたしは〝あれ〟か?」と指さす

「わたしは〝これ〟か?」と思惟する

ところが、これらの探求はすぐに迷路に陥る

  なぜなら「指させるもの」「思惟できるもの」とは
  そうできると言うこと自体が、〝自分以外〟の〝対象物〟だからだ

   そのうち、「指さす指」それ自体も、自分では無い様な気がしてくる・・・

   結論として言えるのは〝わたし〟とはこの世のものではないということだ

  なぜなら〝この世のもの〟は全て、指さし、思惟可能な対象だからだ

だから、指さす対象の反対側に居るのが〝自分〟の正体だと言うことになる
「自分って何だ?」っという疑問点の、まさに出発点に自分は居る
であるなら、〝自分〟とはこの世の者ではない

ジブンとは「具体的、具象的な何か?」では無く、抽象概念だ

じゃあ、〝たかが〟抽象概念だから、何の実体も無いのか?っというと
そうではなくて、この世の全てを感じ取っている中心者なのだから
これが、何一つ実在では無いとしたら、この世界も実在では無くなってしまう

つまり、抽象概念のくせに、世界一大切なのが〝じぶん〟だ

バーチャルとリアルとが、「コインの裏と表」のように不可分に存在しているのだ
それが「じぶんとせかい」だ

この世界における、自分の依り代である肉体が機能停止してしまったら
わたしもまたこの世界での〝のぞき穴〟を失ってしまい、何処か?
別の所に行かざるを得ないのか?・・・それとも相変わらず肉体が無いまま
この三次元空間に漂い続けるのかは分からないが、肉体という接点を失っても
この世界が、実在だったのならば、それを認識していた〝わたし〟も実在だった
ということになる

だから、〝わたし〟が自己確証のために、この世界をいわゆる幽霊のように
彷徨い続けるという可能性はある

しかしその反面、本来は「この世界」と「わたし」とは合い相対する等価なのだとも
言える

禅で言うところの「心身一如」という言葉・・・
この言葉の中の〝身体〟とは、
肉体のことでは無く〝この世界全体〟なのかもしれない


「この」世界に、その目撃者で、体験者である私がもう居ないのなら
〝わたし〟にとっては、この世界は、  ・・・もはや〝過去〟でしかない

〝この〟世界に私を呼び止めるものがいないのなら
わたしは、〝この〟世界を後にして、〝他の〟世界に旅立っていくのかも知れない

新たなそこでは全く別の法則が支配する別の世界が有り、
全く別の楽しみと発見が有るのかも知れない