私はこの世界の誰も知らない

この世界の誰も私を知らない

死の間際を考えれば分かる

誰も看取ってくれなくても
誰かが死の淵の私の顔を覗き込んでも
例え手を握って泣いてくれても、泣き叫んでくれたとしても

この世界から消えようとしている私には届かない
誰かが私を知っていると主張しても
それは私が肉体を通して表現したことしか知らない

   また、それは他の誰に関しても言える・・・

私たちは「知っている」という安心感の中に埋もれて生きていただけだった
誰かの死に目を背け続けてきたのは、その錯覚から目を醒ましたくないからだ

私たちは相互に何も知らないし分かってなどいない、いなかったのだ・・・

それなのに、自分の周りを既知で埋めておきたかったから
「私はあなたを知っている」っと宣言してきた
私はあなたの関心を惹こうと、注目と行為を引き寄せようと躍起になっていた

そして「お友達」なのだと宣言したがった・・・

すまない、
私はあなたのことを殆ど何も知らない・・・
あなたも、私のことを何も知らないだろう・・・

だから、〝友情〟などというのは錯覚の代名詞だ

わたしたちは相互に社会的に協力し合う必要最低限のことしか
お互い分かっていなかったし、また、実は興味さえ無かっただろう・・・

興味すら無いことは、その自覚すら持てないだろう・・・・
何かのアクシデント、何かのハプニングによって
たまに、互いの未知の部分が顔を覗かせる・・・そんな時ぐらいだ
相手の知らない側面に気が付くのは・・・・


  そして、「互いに何も知らない」ということを自覚することによってでしか
   わたしたちは何の接点も持ち得ないのじゃ無いだろうか?