別に、サバイバル=生き残りの為の努力を一切するべきではない!
だ何て思ってはいないし、主張してはいない

ただ、高校生の時代から30年以上問い続けてきた疑問の
答えが、どおやらやっと出た様だ

それを、このブログでシェアしたいし、提案したいだけだ

    「生きる」という主題があってこそ、
     「生き残る」という方法論があるだけだ

その主客転倒があると、人生は虚しい、苦しい、寂しい、退屈だろう

単純な真実なのだと思うが、
なぜか?
この世界では、方法論が主体で、目的であるはずの「生きる」ことは
たんなる退屈しのぎ、うさばらし、気休めであるかの様に取り扱われる


  リアルでも、もちろんネットでも、日々が情報の洪水だけれど
  情報共有(シェアー)というのはあくまでも手段に過ぎないはずで
  でもなぜか?人々はいつも情報に人生を費やしている

  寸暇があれば、

   メールし、ゲームし、スマフォを覗き込みながら
   何かダウジングで宝探しでもしているかの様に、
   夢遊病の様に
   ゾンビの様に

     街の通りを歩いていて
     実に危なっかしい

      だれもが時間欠乏症だ、時間貧乏性だ
      「時は金なり」っという言葉に、人生の全てを捧げているかの様だ

      トイレに入り、排泄の瞬間でも
      スマフォをいじっているのじゃ無いかと疑いたくなるほどだ

      排泄の瞬間はとてもビューティフルなのに、なんでもっと
      人体の感覚を楽しまないのだろう? とっても簡単な神秘体験なのに


なぜ、生きている感覚を味わい、向かい合うことが、そんなに
「時間の無駄」だと思ってしまうんだろう?

バガヴァンは、「努力をしない努力」と表現したが
もう一歩進んで言うなら「努力をしないって、とっても楽」という
あたりきしゃりきのコンコンチキの言葉になる



多くのスピ系男女がノーマインドに憧れているが
「考える」というのは「努力」なのだから、必要な努力は必要なのだ!!

でも、必要ない努力は、ただやめればいい

しかし、「ただやめる」ということには完全な理解と気づきが必要だ
そこにはアートが必要だ、シャープさが必要だ、こころの動体視力が必要だ

それさえあれば、握りしめた拳は、自然と脱力する
つまり、「努力をしない努力」は完全な理解によって無用になる


わたしたちはなぜ主客転倒してしまったのかと言えば
これは  結構長い歴史的経緯がある・・・
      結構複雑な迷路に私たちは迷い込んでしまった

だから、 ただただ見守る、気付く、理解する・・・

   その最終プロセスは確かに単純だけれど
     その単純な出口に至る迷路は、結構複雑だ

結果、バガヴァンの「努力をしない努力」というのは至言だ!と言うことになる


OSHOによると、男女は同じ比率で悟っていると言うことだが
女性のマスターが少ないのはそのせいだろう

女性は悟ると内面からは男性原理が爆発して、とてもサッパリしてくる人が多い
つまりこれは男性的なストレート性なのだ

これは、静寂を言語で上手に説明できる男性のマスターが
女性原理を駆使した変化球を得意とするのと対(つい)を為しているわけだ

女性は個人的なグルとして活躍する事の方が多い






あなたが、ロビンソンクルーソーの様な生活をしているなら
文明的、社会的な努力を放棄するのはカンタンだろう
限りなくシンプルな生活をしているならば・・・

      それは出家僧の様な生活だろう

でも、そんな人でも、東京の雑踏に放り込まれれば途端に苦しみはじめる
慌てて、情報収集に全力を尽くさなければ、即、踏みつぶされる、生きてはいけない

周りは皆、冷たい微笑みを浮かべたマスクを付けた連中ばっかり

生まれたままの素朴な顔をして歩いているのはホームレスぐらいだろう
私たちは、日々、この雑踏の中で生きている
こんな中、たまには山寺で座禅を楽しむのも良いけれど
実際に必要なのは、この都会の雑踏の中で、正気で居られることだ

セレニティーな内面に同調し、保つことだ