今日、人間と亀との意外な共通点を発見した

亀という生き物は外骨格、つまり甲羅という装甲版を持っている

それでいて、内骨格も持っている

昆虫や甲殻類は完全な外骨格型なのに対して
亀やアルマジロは内骨格と外骨格の両方を持っているというわけだ

そこに今日思い当たったとき、人間にも〝甲羅〟が在ることを発見した

    それが、マインド「言語~文明」だ

しかしこれは一見、目に見えない装甲だ

でも、私たちがなぜ、〝裸(はだか)の猿〟になる事が出来たのかと言えば
「衣類や装甲を外付けでまとう」「家に住む」「暖を取る」という
文明による脱着可能なアタッチメント装甲が可能だからだ・・・

・・・それゆえに私たちは進化の歴史の中で、だんだん体毛を必要としなくなった

   皮膚の洗浄も頻繁に簡易に出来るので、皮膚呼吸もスムーズになる

   そして何よりも文明という千変万化な、
       しなやかで強靱な装甲は生物として最強であった!!!


しかし、ここで指摘したいのは、文明というのはあくまでも〝外骨格〟だということだ

根本的には思考能力のことだから、見た目は〝内面的フレーム〟に見える
しかし、文明の「便利さの追求」は、

              あ く ま で も 外 面 的

なのだ・・・つまり本質的に外向的なアーマーなのだ

亀という私たちの隣人は、甲羅という見える外骨格故に
のんびりとマイペースで、ゆっくり呼吸し、長寿を愉しむ

ただし、外骨格は動きがどうしても鈍くなり可動範囲も狭くなる
それでも何とか今の足の長さで「やってこれた」からこそ
甲羅にスッポリ収まる「元祖ヒキコモリ生物」として
今日まできたのだろう

つまり、外骨格は諸刃の剣で、アーマーとしては頼もしいのだけれど
動きが鈍くなる、可動範囲が狭まるという致命的な欠陥もある

私たちの〝マインド〟という外骨格には、一見そんな弱点はないか?の
様に見える・・・でも本当はあったのだ!!

その 弱点こそが、この現代で露骨に出てきたのだ

つまり、私たちは、・・・
無限に、まるで自分の意思を持っている別生物の様に
どんどん勝手に拡大していく、この文明という自分たちの外骨格に、
いま、自滅させられかかっているのだ!!

  仏教に〝無明〟という言葉がある
    これが、全ての苦しみの根本原因だと釈迦は言った

       だから、「無明とは何か?」という解明は、
               仏教の根幹に関わる問題だ!

これを一般的には「無知」と同義として、捉えている場合が多い様だ
しかし、それは
FAIR(公心)か? FEAR(恐れ)か? その3
- I am my own Dimension
http://gocky.blog.jp/archives/5527438.html

で否定した、つまり、
無明とは無知なのではなく、
無知の無自覚さ
と言うことなのだ

無知であることは一向に問題ではない
分からないことがあれば、学べば良いだけ!
「知るは、一時の恥、知らぬは一生の恥」ってやつだ

「知らぬを知らぬと自覚し、知るを知ると自覚する、これが知るなり」である

シャンタン氏は「無明って、単純に暗いって意味じゃない?」と、話してくれた

中国では「明=メイ」と言う文字を「理解する、精通する」と言う意味で
解釈している

  ここは面白いところで、「そこに光があれば〝一目瞭然〟」っと言う意味で
  この両者の意味は合流する  ・・・つまり、「明白」という言葉に
  「十分な理解」と「明かり」の両方の意味が息づいている


   じゃあ、OSHOやシャンタン氏が言う様に
  明るくどんちゃん騒ぎをしていれば、物事がすべて明白に理解出来るのか?

                  ・・・・極めて疑わしい

ただし、「ポジティブ指向」であることによって、理解が一気に進むと言うことは
確かにある  物事は往々にして悲観的に考えすぎると、得てして視野狭窄に陥り
理解が進まないと言うことが多々ある

でもそれは
リオのカーニバルからアインシュタインが生まれ出てくると言うことではない

人生の全てを祝福したとき、わたしたちはマインドという甲羅からの
ヒキコモリから脱出している・・・  この時が禅=ZEN的な瞬間だと思う

↓ 2016年7月1日追加した参照動画


マインド(論理的理解力)こそが、
私たちを最強生物にしてくれた文明の攻殻であると同時に
魂の蝶へと熟成させてくれたサナギでもある・・・

   しかし、同時に・・・
この〝サナギの殻〟は私たちを窒息死させる棺桶にもなるかも知れない

それを自覚出来ないことが無明なのではないか?と今は考えている