『ウイルス君、ばい菌ちゃん、
あなたたちを悪者にしてしまった人間を、お許し下さい』


風間 夕夜 イスラムの砂漠圏に住む人は、日本人から見れば
「水のない不毛の地に暮らすなんて大変だね~」っと思う

ところが彼らからすれば日本は
「あんな多湿なバイ菌だらけの所によく住めるね」っと思っているそうだ

要は「善玉菌」とか「悪玉菌」ってのも人間の勝手な定義なんだよね

その定義をあたかも絶対的な正義の様に振り回している以上
戦争は終わらない



OSHOが絶賛してくれた〝禅〟が、なぜその故郷である我が国で
廃れてしまったのかと言えば、西洋的な唯物主義と、その定義の
前に戦争で屈してしまったからだ


戦争という暴力のステージの上では、西欧のロジックの世界が
勝つに決まっている・・・

「定義」は常にそのホームグランドがある
野球にルールがある様に・・・
「言語」にもそれを使う母国がある様に・・・


日本の神道も、インド発祥の仏教も
莫大な大系や専門用語はあっても、その根底には

   「無」

が広がっている

しつこい様だけれど、
「無」とは不在ではなく存在全てだ、闇ではなく光だ

そこで唯一、存在しないものが、我々人間の為した〝定義〟だ

〝定義〟も、そのボディーは「無」の世界で存在はできる
しかし、「何も決まり事、思い込みが無い世界」とは

まるで、霊界であり
それは、無限の世界でもあるために、もはや「定義」によっては何一つ
束縛することは出来ない

何度も書くけれど
霊界、あるいは無限世界、ゼロ次元世界に唯一存在しないのは
「壁」である----

   そのもっとも具体的な顕現が・・・

  ・・・・つまり、この私たちの住む三次元+時間の世界において
     最高の発明品が「壁」なのだが、・・・

    それは「言葉」→定義、概念なのだ

私たちの祖先は、この強力な武器によって世界征服に乗り出したのだ
つまり私たち人間は

     「冒険と発見と開拓の旅」に出発した

・・・・そして、
   「旅路の果て」・・・  「世界の果て」・・・
     つまり「地球人類の滅亡の危機」まで辿り着いて

        わたしたちは気が付いた

      我々の最大の敵は、自然ではなく、
       何でもかんでも敵だと思い込む
        「我々のマインドの暴力性それ自体」なのだ

暴力からの解放
J.クリシュナムーティー
たま出版
1982-01



    これこそが私たち自身を自滅させかかっている
     映画「マトリックス」や「ターミネーター」で描かれている
              「人類の敵」のラスボスとはこれだったのだ

  だから、
   だから〝ユダヤ陰謀論〟というのも部分的な問題に過ぎないのだ


私たちが使っている “ことば” 〝定義〟〝概念〟 というのは
実に便利なツールで有り、そして武器なのだが、
いつしか私たちはこのツールに頼りすぎて、
自分自身のアイデンティティーすら
飲み込まれてしまったのだ

あとは、〝かれら〟が独自の生物種の様に、どんどん勝手に増殖している

私たち人間の生殖行動さえ、〝かれら〟が、宗教や政府という姿を得て
コントロールしている

「これは良いこと」「あれは悪いこと」
「これは善玉菌」「あれは悪玉菌」

・・・・そういう全てが身勝手な〝定義〟だ

  そこでわたしたちは再び〝禅〟〝神道〟などの示す「無」に
  帰り着こうとしている

その最後のハードルとは、「無」とは「何も無いことだ」という概念だ

日本人の「無念無想」への憧れ、「和の精神」「潔癖主義」へのこだわりは
最後のつまずきになっている

「無」とは、日本の禅僧が着る「黒」ではない、「闇」ではない
「黒」の否定感とは、本来は「壁(思い込み)」に対する否定観なのだと思う

            しかし今は、葬式の時の「お悔やみ」の礼装
                  と言う意味でしかなくなってしまっている

衛生面を気にしないと、食中毒などがすぐ起きる我が国の
風土の中で暮らす上で、いままで日本人が潔癖症だったのは
やむを得ない生活の知恵だった

しかし
   バイキンだろうがゴキブリだろうが、人類が存在する前から
   ずっと存在してきた大先輩である

   それを人間が自分の都合で名付けてイメージ化し否定したときから
   かれらとの「仁義なき戦い」は始まったのだ・・・・