私はかなりの重度のアスペルガーである

だから、自分に正直なことだけが、最大で、絶対的な価値であり
その為に他人を傷つけてしまうことが多々ある。

こうやって、ブログに「わたしはアスペで...」っと公表してしまうこと自体が
アスペのなんたるかだろう

甘えかも知れない、そんなことをいきなり告白して、読む人を困らせてしまうことを
しかし赦して欲しい!

わたしの星の中には「ヌーディズムに心理的解放を見いだす抑圧された女」という
サビアン・シンボルが存在するが、まさしく、これは一種の露出狂なのだろう。


でも、肉体が若く美しい女性ならば、そんな町中を全裸で歩くことも、男性達の
眼の保養になり、その実は楽しんで貰えることだろう。

残念ながら、わたしは男の肉体に生まれてしまったので、その様なかたちで
男性達を楽しませることさえ出来ない。

しかし、わたしの〝ヌーディズム〟が、何らかのかたちで、ひとびとを楽しませる可能性だって
あるかもしれない


OSHOは、「おおいなるイエスマンになりなさい」と言った

それは、あらゆる過去、現在、未来の、瞬間、瞬間に対して

    「未完成なものはひとつもない」

っという宣言なのだとも、言えるのではないか?

わたしのヌーディズムも、単なる狂気、異常性、倒錯なのかも知れないが、
それすらもまた、この「イエス」によって赦されることを願う。


アスペルガーである私にとって、自分自身に「イエス」と言うことは、気が遠くなるほどの
ハードル、恐怖、だ。   それは冒頭に述べたこととまったく矛盾すると思うが....

自己受容とアスペとは、ひょっとしたら原因と結果、目的と手段なのかも知れない

アスペとはうぬぼれ(自己愛への耽溺)とは全く違う

「他者と比較して」どうこうというより、自分の精神世界の中に「他者が存在しない」のだ

ただ、自分の痛みから他者の傷みを必死に〝連想〟するしかない。

しかし、「アスペではない」人達というのは、「連想するまでもなく解る」らしいということが
おぼろげな恐怖とともになんとなく理解出来る


人のこころがどこにあるのか?、それに自分は気がつかず、全く見えず、あっちでぶつかり、こっちでよろめき

   ....それでも、そんな自分を肯定出来るのか?一体、許されるのだろうか?

   そう考えると、気が遠くなる様な目眩を感じるのだ

   ....それでも、....

           
〝それでも〟ということが、アスペルガーというこころの盲目に生まれた者の
              最後の試練なのかも知れない