映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」に以下の様な
台詞のやり取りがある



  「フリー(砂糖抜き)のコーラもらうよ」

  「フリー(無料)だと?そんなものねえよ」


主人公のマクフライが言っていたフリーとは解放である
つまり、白砂糖とは依存性があって身体を束縛するわけだ・・・

白砂糖は体内のカルシウムを溶かして、骨をスカスカにしてしまう!!
文字通り「骨抜き」にされるのが白砂糖だ・・・




この名作映画の出演のあと、マイケル・J・フォックスが
ペプシの飲み過ぎでパーキンソン病にかかってしまった
のは
因縁めいた話だ

  いま、
アメリカという国家自体も、重い病にかかっている

かつて日本が通ったバブルの熱狂がおわり
マイケルムーアが彼の映画作品で何度も取り上げた、彼の故郷
フリントの様な荒れ果てた大恐慌状態が、今アメリカを蝕んでいる



それゆえに今、アメリカの人達が思うのは
この〝病〟とは何か?その〝治癒とはどうすべきなのだろうか?〟という
模索だろう

  その処方箋とは「FREE」ではないか?
  ・・・アメリカの人達はそう気が付き始めたのじゃないだろうか?

     その模索の結論が以下の動画に表現されている様に思える




これらの記事を見て、何人かのFBの女性達が目を回した

  「全裸だなんて信じられない!しかも女性の賛同者までいるのがショック!」

  「金ももらわないで、タダで自分の裸を見せるなんて冗談じゃない・・・」


そしてまたある女性はこんな事を今朝メッセしてきた

  「結局フリーセックスって男目線の理想の押しつけではないか?」


これらの女性達の声を考える上で連想したのが、上記の
「フリー(無料の)ドリンクなんかウチにはおいてねえよ!」という
台詞だった


  わたし自身、「フリー」という言葉に対しては警戒心は持っている

バシャールや都留晃一さん、その他スピ系の人達がキラキラした天使っぽい
絵を提示しながら高らかに言うのが「無条件の愛」というやつである

  この台詞を見ると私はキターーーー!っと思いつつ叫ぶ

        「無条件の愛とかきれい事言うのは
         全財産を慈善団体に寄付してから言いなよ!」

ところがわたしは
実際に「無条件の愛」の中に生きている人々を美しいと思う・・・
        ・・・・・・究極的なまで、絶対的なまでに美しいと思う


そしてそんな人達が、生き生きと己の生き方が
如何に歓びに満ちあふれているかを夢中になって人々に語るのも
素晴らしいと思う

でもその生き方を、「教え」とすることには私は反対だ
なぜならそれは誤解を招き、多くの人から拒絶反応を引き起こすことになるからだ

  わたしたちは「自由」を本性として生まれてきた・・・動物たちも、
   わたしたち人間も、


自由の本質は「無邪気さ」にあるとおもう

自然に振る舞うと言うことは、
生き物にとってとても大切なことなんだ

             BY スナフキン名言集


無邪気さというのは言葉で教え諭すものではない
もどかしくても、自分自身の生き様で自然に伝えて行く以外の
方法は無いのではないか?とおもう

「無条件の愛」なんてあるもんか!と言いたいんじゃない・・・・

ただし、それは、存在銘々の中心、ハートの中に
     ひっそりと宿るものだと思う

その純白の光が外にこぼれ出たとき、それは「無邪気さ」「純真無垢さ」として
周囲を明るく照らす・・・それだけのことだと思う

そしてその純白の光は、ありとあらゆる形で表現される

笑顔でも、言葉でも、仕草でも  ・・・・そしてもちろんセックスの中でも!!

フリーセックスというのは、あるいはヌーディズムというのは
不特定多数と「する」とか「しない」とか
「お金を取る」とか「取らない」とか言った問題とは全くかけ離れている

それは純然たる歓びであって、何かへの期待じゃない

あらゆる意味での身構えじゃない、何かの「方針」でもない
  「身構え」そのものが「邪気」であり「穢れ」なのだ




あらゆる「身構え」あらゆる「思い込み」あらゆる「決めつけ」からの自由

それこそがフリーセックスという言葉の真意であり、
それを「乱交」と決めつけること自体が「卑猥さ」「邪(よこしま)な思い」「奴隷化」なのだ



本当のフリーセックスとは、たとえ夫婦だからと言って
セックスに応じなければいけないという義務からの解放も意味する

男=夫にとっても、女=妻にとっても、結婚という社会制度、家という密室が
性のあらゆる種類の拘束、約束、虐待、暴行、強制の温床であってはならない・・・
っということ・・・それもまたフリーセックスという言葉の意味するものだし
・・・誰とも性交渉を持ちたくない、拒絶したい、というのが本人にとっての
自由な意思なら、それが最大限に尊重されるのもまたフリーセックスの
意図するものだとおもう


自由というのは本質的に危険を感じるものだ

なぜなら、ここから先は莫大な未知が広がるからだ

でもだからこそ、このありったけの、無限の未知が開かれていること・・・
可能性が広がっていると言うこと・・・

  一体それ以外に「愛」が可能だろうか?

          「自由」抜きの「愛」は可能だろうか?

           「愛」が無くて「自由」に何か意味があるだろうか?


ちょっとついでだけど・・・・

  いま、日本の女性達の多くは「従軍慰安婦」の様な被害妄想に
  囚われてはいないだろうか?

  もし、そうなら
  韓国からグチグチ言ってくる「従軍慰安婦問題」というのは
  日本の女性達の陰湿な被害妄想が呼び寄せているんではないか?

  ふとそういう思いがかすめた

女性達は「性」を、「出産、子育て」を、「愛情」を、
自分の「販売商品」にしてはいないだろうか?

そしての代金として「妻の権利、立場」を欲しているのではないだろうか?

  つまりそれが「従軍慰安婦」


そんな彼女たちにとって、「フリーセックス」という言葉は
「商売敵」「所場(ショバ)あらし」にきこえるのではないだろうか?

つまりは夜鷹の縄張り争いと大して変わらない

図書館が出来ることをプラカードを持って反対デモする
本屋さん達の様なものではないだろうか?

もちろん、こんな「ゲスの勘ぐり」が当たっていないことを心から祈る
しかし、少なからず、そういう風にしか解釈できない女性達の発言を
私は聞いてきた ・・・私としては、とても寂しく、残念なことではあるが
「貞淑な妻」というスタイルにさえも商品プレミアムとして「値札」をつけている
「(本当の意味で)ふしだらな」日本の女性達は、今、少なくない様に思うのだ