We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2021年05月

「あり得ない」
 ---だなんてこと
  何もあり得ない



ヌーソロジーでは
「スピリチュアルなどで
 〝内側=主観的な認識〟と呼んでいたことは、
      実は〝外側〟だった」と言っている。

つまり、この言葉は
 「堅く限定された物理空間でさえもが、
     実は私たちの意識の投影だった」
    っという風に言い換えられるかも知れない。

「物理的な環境が先か?」
「意識が先か?」・・・難しい課題だ。

一般的なアカデミックな(いわゆる)科学では、
迷うことなく「脳(ハードウエアー)が意識を作った」っと解答するだろう。

たとえば、私が住む東京の街は、私が東京に来る前から存在していた。
そしてその東京に住む私は、東京という環境によって明らかに影響を受けている。
「東京が今の私を形作った」っと言っても良いかも知れない。

でもその反面、
「今の私(=意識)が東京という街をずっと待ち望み、
 宇宙開闢以来から東京という街をずっと準備し、形成し
  そしてその出来上がった環境を選んで今も住んでいる」
  というバイオセントリズム的な発想で解釈することも可能だ。

これはいわゆる壮大な
「タマゴが先か?ニワトリが先か?」という議論だ。
       
表面的、近視眼的にはあきらかに
「東京が、私を作った(私を招いた)」としか思えない。

そしてこれは同時に、
「現代の貨幣経済が、今の私たちを生みだした」とも言い換えられる。
この〝近視眼的な見方〟は一見するならば明確な因果関係を物語っていて、
不可逆的に見える。

すると私たちはいわゆる
「世の中やっぱカネが全てじゃん」っていう結論に縛られることになる。

この「表面的、近視眼的な因果関係がすべて」という囚われが
まさしくわたしたちを束縛している「人生の罠」そのものではないだろうか?

しかし、
実際には誰もが無視できないような
シンクロニスティーを体験したことがあるだろう。

それがまたソクラテスの言った「無知の知」が指し示すところでもある。
つまり、すべてを因果律(自然科学)のみに頼って、
いつかはすべて説明し尽くせるという日が来る、っという傲慢だ。


私たちの見えないところでは、
物事は表面的な因果律を超えて
  あらゆる事が「起こり得る」。

この最たる例が、「ひとの考え方=MIND」だと思う。

あなただって、
巨大な岩石のような堅くて重たい
「人のありかた、考え方」を実感したことがあるはずだ。
ところがその反面、
たった一晩で、いや、一瞬で、がらりと変わることもあり得る・・・
      それがやはり「人のありかた、考え方」でもある。

そしてその変化は時と場合によっては、
モーセが紅海を割ったような、信じられないルートを私たちに開示するのだ。

待ち合わせ、
大事なあなたの
  時はカネなり



わたしは、このひろゆき氏が言うのと同じ様な
「女は男のカネについていく」
といった錯覚をつい最近まで引きずっていた。
現在でも自分の低収入に対するコンプレックスは強いが、
でも、まさしくそのコンプレックスとは、
この錯覚から完全に目覚めることで克服していけるはずだ。

順番が逆だったのだ。

お金がないから、自由な時間が無い、
自分に様々な選択の自由がない。
女性から相手にされない・・・。
・・・そうではなく
自分の時間、そして相手の時間を
大切にしないから、その意識が足りないからこそ
金運にも恋愛運にも友人運にも恵まれないのだ。

何も年がら年中、生産的な時間の使い方をしろ、とか
資格をとる勉強をしろ、という風に自分をせき立てることが
        「時間を大事にする」ということではない。
それをいうならば、まさしく瞑想こそは最大の時間の無駄だろう。

相手の時間を無駄にさせない、
自分のムードやら都合次第で相手を振り回さない。
・・・たとえば3.11の大震災の時にもちゃんと列を作って
   社会的な規律を崩さない。
   そういった他者への尊重に溢れている日本人だからこそ
   日本の社会は高い生産性と世界からの高い評価を得てきたのだ。

  それは単なるヒステリックでナーバスな規律主義ではない。
  右へならへの教条主義、協調思想というだけでもない。

  「自分の時間を大切にする」とは、
  「他人の時間を踏みにじらない」という実践によって体得できる。

  「愛とは何か?」とテツガクしているヒマがあったら
      愛を実践していく方がずっと体感できるのだ。

ジョブスのような「ビジネスの大成者」を英語でタイクーンと言うそうだが、
          なんとこれは日本語の「大君」が由来だそうである。

要は、女性が本能的に求める「デキるひと」というのは、
こういった社会への奉仕が「デキるひと」のことだったのだ。

 女性にインタビューするならば
 彼女たちの誰もが口を揃えて「優しい人がいい」という。

 ただそう答えている本人達さえ、多くの場合自覚していない。
 「優しい」とは、他者へのリスペクトに溢れている人で
 本当は
 「おまえだけを愛してるぜ」といった
 「依怙贔屓なひと」のことでは、実は、ないのだ。

だからわたしもそろそろ
「オンナは男のカネの匂いに追いていくのさ!」という
僻み根性を捨てようとおもう。

たしかに「男のカネの匂いに追いていく」いった女性も
世の中には多いかも知れない・・・
〝売春〟という人類最古の商売の存在がそれを証明している。
しかしそれを〝オンナの本性〟と思い込むのはとんでもない誤解なのだ。
そういう勘違いをしている男性は、
「女の本性なんて、誰もがビッチさ!」という
とんでもない思い込みを引きずり続けることになる。

女性は、
他者や社会全体への優しさや創意工夫に富んでいるひとを
見抜く本能を持っているし、
まさそういう本能の持ち主こそ、「いい女」「イイ男」なのだ。

見抜いたら
去った、散った、
ああ~なんだぁ~~!



OSHOは自らのエンライトメントの体験を語った時、
「その時私は初めて孤独ではなくなった・・・」と言っている。
この言葉は同じく彼の
「独立という発想は間違っている」という言葉ともリンクしている。

バシャールは、
「もっとも自分らしく生きている時、
 逆説的ではあるが、
 もっともあなたは世界と一体になっている」と言っているが、
  このことともまたリンクした話だ。

この〝逆説的な〟というところがミソで、
 「自分らしくあろう」とすればするほど、
     孤立化してしまうのが世の常だ。

万物万象に始まりと終わりがある世界と、
全てが無限に繋がっている世界とは、
〝一見〟〝表面的には〟全く別世界に思えるが、
実際にはすべてが断片的で限定だらけに見えるすべてのものが
実はすべて無限世界の属性を帯びている・・・。

単に私たちの肉体内に宿る意識、生命自体が「不生不滅」なだけではない。
ほんとうは万物万象が「不生不滅」なのだ。

・・・しかし〝一見〟〝表面的には〟
   そうは見えないところに
   一種の宇宙的なトリックが仕掛けられている。

OSHOは、悟りのことを「罠を見破る」と表現していたこともあったが、
その罠とはまさしくこのことだろうと私は思う。

物事は表層に囚われてみるならば、「有限なものだらけ」なのだけれど
真相、あるいは深層、を見極めるならば
「すべては無限のTAOの海の一部であり、その一部が同時に〝すべて〟」でもある。

・・・この境地に至ってはじめて、
 「私たちは孤島(の様に見えてもそう)ではない、相互依存の中にある」
 「独立して存在しているものなど何もない」と実感でき、もはや孤独ではない。

 そしてその自覚こそがエンライトメントそのものであるわけだ。

だから、このブログ記事でもかなり初期に書いたことだけれど、
「自分の感じている孤独感を正直に認める」ことは極めて大切なことだ。

大人になってしまうと私たちは率直に孤独感を認めることが出来なくなる。
「いえ!私は大丈夫です!」みたいな感じでね・・・

しかし、大げさな言い方になるかも知れないが、
エンライトメント、この世に生まれて来たことの目的とは、
この孤独感という錯覚を超越することにある、と言っても良いかも知れない。

つまり、この孤独感という錯覚から発生している痛みを、
独立というさらなる錯覚の上塗りをし、絆創膏を貼って誤魔化してしまった時、
私たちはますます孤独の中に硬化、あるいは降下してしまうのだ。

かつてわたしは
孤独感を訴える人を見下したり、ウンザリしたりしていたが、
「自分はもう独立個人だ」とうぬぼれていた、
その自惚れの結果として他者に対して冷たかった、っという意味で、
それはわたし自身にまだ孤独感が残っていた動かぬ証拠だったのだ。

ハードボイルドの巨匠、
レイモンド・チャンドラーRaymond Chandlerの言葉

  タフでなければ生きていけない。
  If I wasn't hard, I wouldn't be alive.
   優しくなければ生きていく資格がない。
   If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.

このかねてから大好きだった言葉を、
私はもっともっと深く咀嚼するべきだった。

孤独で打ち震えている人達は素直な人達だと思う。
そして孤独感とは、判ったフリ、独立したフリをして誤魔化すことは危険で、
意外なぐらい、人生の全体をスッポリと被う話なのだ。
それは「エゴという殻」そのものであり、
この甲殻が実は幻想であったことを〝見抜く〟ことは
エンライトメントと同義ですらあるかも知れない。

孤独で泣き叫ぶ人に、ただ安易に同調して甘えさせることは、
真の優しさではなく、単なる自己投影に過ぎないと思うが、
では、「甘えさせてはいけない」「つけあがらせてはいけない」というので
邪険な態度を取るのが正しいのか?というと、これまた違う。
(私はずいぶん長い間、この間違いを犯してきた)

わたしたちはほとんどの場合
盲目同士で互いに甘やかしあって、、
それを本当の愛、本当の優しさだと勘違いしている・・・。

その物語りの始まりはロマンティックに見えても
それはよくある通俗的な恋愛ドラマのように
だんだんと互いに失望して傷つけ合い、相手に責任転嫁しようと罵り合い、
あるいは相手を切断し、置き去りにしたりする。

互いのエゴを投影し合うドラマのループから脱出するのは、
この様に、実に、非常に、難しいパズルだ。
その根本原因は往々にして、
自分の中にまだ「見破ることが出来ていない」孤独感が巣喰っているからなのだ。

まるで孤独感を卒業した超越者の様に
ひとりで聖者のように過ごしていたならば、
たしかに恋愛のドタバタ劇からは、一見、無縁になった様にも見えるが、
実際には、問題が潜在化し、ますます奥底で心が硬化してしまっているだけで
むしろ「すべてがひとつ」というエンライトメントの境地からはどんどん離れてしまう。

そういう意味で、「覚醒したフリをする」という自己欺瞞はもっとも厄介だ。
そういった、彼、彼女は、
「石ころのような」タフな強さは得られるが、
「花のような」優しさに満ちた強さとは正反対の処にいる。

OSHO、自らのエンライトメントを語る

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