We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2021年02月



「私たちが何故いまここにいるのか?」
「それはあなた自身の同意によるモノです」
「だから、あなたがこの時代、この社会に生まれて来た理由を、
 やるべきことをやるべきです」
「それが判らない人は目を光らせてそれを探すべきです・・・」

多分このメッセージに心地よく肯く人は多いだろう。
でもハタと思ったのは、
「これはある意味、バシャールのメッセージと正反対だな」ということだ。

誰もが、自分の生まれてきた意味を探している。
自分の使命、自分のソウルメートを探している。

でもその結果、盲目になっているのではないだろうか?
その盲目から連れ帰ってくれるのがバシャールの「ワクワク」なのかもしれない。

この「ワクワク」もまた〝探して〟しまうと〝違う〟気がする。
バシャール自身が説明する様に、
「ワクワク」とは、「~だといいなあ」という〝憧れ〟のことではないという。

〝憧れる〟という事で、
次に〝引き寄せの法則〟なるモノが必要になるのだが
それと同時に〝信念〟なるものも要求される。

しかしそういった「手を伸ばす」ことが
本当に「人生の使命を果たす」ことになるのか?

人生の「漠然とした不安」とは、
そのような「生まれて来た使命を果たす」
あるいはそのような「使命自体を見つける」ことへの
        焦り、疲労から
       湧き上がっているのではないだろうか?

「いや、ボクは〝使命を果たす〟〝使命を見いだす〟こと自体に
ワクワクしているんだ!ほっといてくれ!」という人に対して
余計なお節介を焼く必要は無いだろう。

世の中にはいま、山ほどの課題があり、危険があり、
だから「為すべき使命」も山ほどある様に見える。

でもそれほど「山ほどある(はずの)使命」の、
どれかたったひとつでも「絶対に正しいこと」が、
私たちには、本当に、明確に、理解しているのだろうか??

「いろいろ探すのにワクワクしている」人達に
私は水を差す様ではあるが、
「何が本当に正しいのか?」
わたしは誰もが「ワラ一本分でさえ」分かっていない上で
闇雲に行動している様に見えるのだ。私自身がそうなのだから・・・

「分かち合うこと」「真実を広めること」は確かに素晴らしいだろう。
自らが真実と感じたことにひたむきに打ち込むことも素晴らしい。
そこに使命感を感じて行動している人に何も文句はない。

しかしそういった「思い入れ」が強ければ強いほど、
「私はライトワーカーだ!」といった自己同一化が強ければ強いほど、
その純真さに、危険な「宗教臭さ」を感じるのは私だけでは無いはずだ。
〝宗教〟と言った場合、
一般的には「教義体系、信念体系の共有組織」「統制団体」を意味するが
でもそれらの実体は何かに自己同一化を切望する個々人の中にすでにある。



むしろ何の思い入れも無く、自分が何かの行為者だという感覚さえ無く
自分がやりたいことをやっている人にこそ、私は美しさを感じる。

それは一見、静かな光景ではあるが、
「使命感に駆りたてられた純真さ、切実さ」と
「行為者である自覚さえない純真さ、切実さ」とは正反対である様に思う。

バシャールが言う「ワクワク」とは後者のことを言っている様なのだ。
その結果、経済的に成功するかも知れないし、
何か大事をなすかも知れないが、
それらはあくまでも「結果(副産物)」に過ぎない。

    ・・・そこに美しさがあるように思う。

だから、
聖書が言う「この世の終わり」とは、
「言葉による支配の終わる世界」のことだ。

チョット考えて見れば当然のことだった・・・
あまりにも単純すぎるパズルではないか?

「言葉の記述による支配の始まり」にあたって
聖書は何者かに記述された。

しかし言葉によって「始まった」世界とは、
かならず「有限」であり「終わり」があるのが当然だ。

「有限の世界」とは
かならず「始まりと終わりがある」と言う意味であり。
そして「限定的な法則が支配する世界」だ。

言葉は無限という概念を弄び、空想することは出来ても、
無限に直接「触れる」事は出来ないのが宿命だ。

しかし、
言語が生まれる前から
沈黙は存在したし、
生命の営みは存在した。
つまり「有限の世界」の(より巨大な)すぐ外側に
ちゃんと「無限の世界」は存在し続けているのだ。

これこそが「道」だ。

p1

道は「生ある限り永遠に歩み続けるもの」であり、
教えはその「道すがらのヒント」に過ぎない断片(By 小名木善行)だ。

だから「宗教」は
生命や永遠について
「語る」「示す」事は出来ても
 実際に「歩む」事は出来ない。

だから「宗教」は
かならず「この世の終わり」を預言するが、
その「終わり」とは「教え自ら」のえがく世界の果て、
限界、賞味期限を意味している。

言葉とは、
いくつかの法則による世界の把握、世界の支配への試みに他ならない。

言葉の支配する前から縄文文化は存在しており
また仏教は「言葉で語られた神」の教えではない

なぜルシフェルが「光」なのか?
それは言語や記号こそが「物事を明確化すること」
 ・・・つまりそれが「光」であり「デジタル化」だ。



  明治維新では
  そういった欧米キリスト教(ルシファー)文化の侵略を「文明開化」と呼んだ。

なにしろ「まず言葉ありき」で世界を創造したという神なのだから
そのもっとも悪魔的な要素の集大成こそが
「暁の明星:ルシフェル」というわけだ。

その支配が今、終わろうとして、
最後の断末魔に、
言葉のあるじであるはずの、
わたしたち地球上の生命そのものを、
道連れに無理心中しようとしているのだ。続きを読む

切ろうと思って切れるモノではない・・・
あなた自身が刃(やいば)だと見つけるまでは。
愛そうと努力して愛せるモノではない・・・
あなた自身が愛だと自覚するまでは、

そして切ろう、愛そうとする努力自体が、
あなたの本質が刃でも愛でもない証拠だ。


ブッダには、
森羅万象が悟性によって動かされている様に見えるとの事だ。

私は何人か「自分はエンパスだ」と名乗る人と出会ったが、
そういう人に限って一種の〝過剰にナーバス〟なサイコであることが多い。
そして同時に、そのナーバスな分だけ、やたらに鈍感で独断的なのだ。

・・・皮肉なことだと思う。
エンパスとは他者との強い共感能力者であることを意味する言葉だが、
「自分はエンパスだ」と名乗ること自体が、
「自分は特別な能力者だ」という主張に他ならない。

〝自分は特別だ〟という主張そのものが
自他を区別している何よりの証拠ではないか? 一種の自己矛盾だ。

エンパスという共感能力者の発見は、自称によってではなく
(心理学者だとか)誰かが誰かを指さして
発見されたものではないだろうか?

本人にとって
「当たり前に感じること」「自然なこと」だと思えることは
「自分は特別な能力者だ」などとは思いもよらないことで、
自覚することさえ難しいだろう。

ブッダにとって悟りの状態とは「最も自然なこと」であり
エンパスにとって共感しあうことは「最も自然なこと」なはずだ。

つまり「過剰にナーバス」な特別感があったとき、
初めて「自分はエンパスなのではないか?」という説明に向かう。

そういう意味で、
「自称エンパス」という人を私は多少警戒する。
一種の被害者妄想に取り憑かれやすい人が多い様に思うからだ。


「切る」のであれ「愛」であれ、自覚している時にはすでに終わっている。
「これぞ愛じゃ!」と主張している時、そこに愛はない。

この宇宙で起きている森羅万象は、自意識 なき物理現象も心理現象も、
ただひたすら
「自覚無用な自然なニュートラリティー」に
向かっているのではないだろうか?

・・・それを私たちは
  「切る」と名付けたり「愛」と呼んだりしているだけだ。
  でも実際に起きているのは、
 ひたすら
   均衡状態に向かって宇宙は変化、運動しているだけ・・・

   誰かが誰かを狂おしく恋する感情も含めて、だ。

ならばそこで
「私は悟っている」だとか
「私はエンパスだ」だとか、
「私は天才だ」だとか・・・、
・・・そこに特別なモノ、名乗るべきものなど何も無いではないか? 

だから私は何かの集まりで「自己紹介」するのが大嫌いなのだ(笑)。
自己紹介とは常に
「自分の切り売り」「特化」「デフォルメ」であり、妥協に過ぎない。

あなたは天皇陛下が、
「そーです!私が天皇陛下です!!」と、自己紹介する姿を想像出来るだろうか?
生まれた時から天皇の世継ぎとして生きてきた人物にとって
「天皇であること」とは自然すぎることで、いまさら名乗るべき事ではないのだ。


c0_02_49_02

それは、
「私やあなたは、この世界で塵よりも小さな存在だ」と言うことだ。

そりゃあ、自分の肉体という小さなアイコンぐらいは、---あるだろう。
食べたり、ウンコしたり、何かを消費したり、
誰かとモノや情報を分かち合ったりして、
若干の影響をこの世界に残すぐらいなら出来るだろう・・・。

でも、
このアイコンがトランプやバイデンに成り代わることが出来たとしても
   一体それで、どれぐらい「大きくなった」と言えるだろうか?

 しょせんは、「塵より生まれ、塵に還る」話に過ぎない。

この世界を破壊したり救済したりといった、
         「影響力の大きさ」も、
    実は「大した意味はない」ことを
    私やあなたは、薄々気が付いている。

23

だから日本人は、
社会変革の為に評論活動したり、デモ行進することは
「もっと意味が無い」ことを、なんとなく分かっているのだ。

N_00_05_13_01

 「外側には何の救いもない」ことを
私たちは気が付き始めている。

  ・・・でも、あまりそのことに直面したくない(笑)

  ・・・私たちは「絶対的な絶望が何よりも手前に、目前にあること」を
        「絶対的に認めたく・・・」ない。

ゅ


だから、
「チャネリング」のようなスピリチュアルや、
「第三次世界大戦の危機」に気をそらしているのだ。 

「全世界よりもあなたという個人が大事だ」というのが、
   単なるキレイゴトではなく、真理なのは、そういう意味だ。

  自己尊重にたどり着けない人々が、
  一体どうして
  「この世の終わり」を気に掛けるだろう?

cPPN_00_02_29_01

「お金とは物体ではなく、
 お金の本質は貸借データーだ」
この「お金唯物論」から抜け出すと
市政の銀行がどんな仕事をしているのか?
やっと理解出来る。

お金とは貸借関係の発生と共に
ゼロから生まれて
ゼロへと帰って行く
このパラダイムシフトが
いまだ経済学者の間でも起きていないのだ。

スピリチュアルな話題で
気休めだけを探している人達は
「お金の唯物論」に捕まったまま
いったいどんな
スピリチュアルを
追求しているというのだろうか?



常温超伝導や画期的蓄電システム、フリーエネルギー、
経済MMT理論にせよ、
今起きているパラダイムシフトを一言で表現するなら
「有限と無限との境界線が曖昧になってきた」ということだ。

これは大きなカタストロフも引き起こしかねないが、
私たち生命の兄弟姉妹達が
物質世界に生まれて来た第一目的が、
今まさに達成されようとしている現場を目撃しているという
〝祝福されるべき〟状況なのだとも言える。

 そういう意味で私は基本的に楽観的だ。

この自然界は
「使えば減る」
「すべてに始まりと終わりがある」といった
有限性の表層(見かけ)を呈している。
だから、
「死んだらおしまい」といった唯物論、有限観念に
 魂まで、骨の髄まで染まりきってしまうのが、
 この物質世界の〝わな〟=マトリックスなのだ。

この罠、このトリック、錯覚を見破ることが
スピリチュアルでは「悟り」と呼ぶのであって、
本来の無限性、ワンネスとは
「神」という名の「偉大ないつかどこか」ではないのだ。

それは「何時か到達できるどこかの天国」ではない。
神も救世主も不要だったのだ。
否、むしろ邪魔者だった!
それが、生命の第一目的、悲願である、
「有限と無限との混在:ブレンド」であり、
「色即是空、空即是色」のヴィジョンだ。

それは
「達成すべき理想」ではなく、
「いままでもずっとそうだった」し、
「これからもずっとそうであろう」ことだ。

しかしそれが
いよいよ可視化されてきたのがこの時代なのだ。

↑このページのトップヘ