「私たちが何故いまここにいるのか?」
「それはあなた自身の同意によるモノです」
「だから、あなたがこの時代、この社会に生まれて来た理由を、
やるべきことをやるべきです」
「それが判らない人は目を光らせてそれを探すべきです・・・」
多分このメッセージに心地よく肯く人は多いだろう。
でもハタと思ったのは、
「これはある意味、バシャールのメッセージと正反対だな」ということだ。
誰もが、自分の生まれてきた意味を探している。
自分の使命、自分のソウルメートを探している。
でもその結果、盲目になっているのではないだろうか?
その盲目から連れ帰ってくれるのがバシャールの「ワクワク」なのかもしれない。
この「ワクワク」もまた〝探して〟しまうと〝違う〟気がする。
バシャール自身が説明する様に、
「ワクワク」とは、「~だといいなあ」という〝憧れ〟のことではないという。
〝憧れる〟という事で、
次に〝引き寄せの法則〟なるモノが必要になるのだが
それと同時に〝信念〟なるものも要求される。
しかしそういった「手を伸ばす」ことが
本当に「人生の使命を果たす」ことになるのか?
人生の「漠然とした不安」とは、
そのような「生まれて来た使命を果たす」
あるいはそのような「使命自体を見つける」ことへの
焦り、疲労から
湧き上がっているのではないだろうか?
「いや、ボクは〝使命を果たす〟〝使命を見いだす〟こと自体に
ワクワクしているんだ!ほっといてくれ!」という人に対して
余計なお節介を焼く必要は無いだろう。
世の中にはいま、山ほどの課題があり、危険があり、
だから「為すべき使命」も山ほどある様に見える。
でもそれほど「山ほどある(はずの)使命」の、
どれかたったひとつでも「絶対に正しいこと」が、
私たちには、本当に、明確に、理解しているのだろうか??
「いろいろ探すのにワクワクしている」人達に
私は水を差す様ではあるが、
「何が本当に正しいのか?」
わたしは誰もが「ワラ一本分でさえ」分かっていない上で
闇雲に行動している様に見えるのだ。私自身がそうなのだから・・・
「分かち合うこと」「真実を広めること」は確かに素晴らしいだろう。
自らが真実と感じたことにひたむきに打ち込むことも素晴らしい。
そこに使命感を感じて行動している人に何も文句はない。
しかしそういった「思い入れ」が強ければ強いほど、
「私はライトワーカーだ!」といった自己同一化が強ければ強いほど、
その純真さに、危険な「宗教臭さ」を感じるのは私だけでは無いはずだ。
〝宗教〟と言った場合、
一般的には「教義体系、信念体系の共有組織」「統制団体」を意味するが
でもそれらの実体は何かに自己同一化を切望する個々人の中にすでにある。
むしろ何の思い入れも無く、自分が何かの行為者だという感覚さえ無く
自分がやりたいことをやっている人にこそ、私は美しさを感じる。
それは一見、静かな光景ではあるが、
「使命感に駆りたてられた純真さ、切実さ」と
「行為者である自覚さえない純真さ、切実さ」とは正反対である様に思う。
バシャールが言う「ワクワク」とは後者のことを言っている様なのだ。
その結果、経済的に成功するかも知れないし、
何か大事をなすかも知れないが、
それらはあくまでも「結果(副産物)」に過ぎない。
・・・そこに美しさがあるように思う。