Kは言う。「第五の質問、
『あなたは誰ですか?』だって?
・・・何て馬鹿げた質問でしょう。」
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この質問に対して「わたしは何々です」と言葉で回答しても
それはレストランの前に掲げているメニューを眺めているようなものだ・・・。
いわゆるジコタンキューを「馬鹿げたこと」として
「青臭い奴らだ」とからかいのネタにする人達に、
わたしは「条件付き」で同意する。
「探求可能な何か?」とは
常に「自分から距離があるもの、事柄、対象に対してのみ」であり、
「自分自身」「いまここ」とは
マインドによって探求可能な対象ではない。だから、
「これらは馬鹿げたこと」なのだ。
「わたし自身」は探求できない・・・
それらは何か「馬鹿げたこと」の中に投影されて、部分的に映し出される。
それでも、依然スピリチュアルな?質問として
この禅問答は繰り返される必要がある。
それは社会に対して妄想しか投影できない
ニートの「青臭いエクスキューズ」としてではない。
スピリチュアルな問いにせよ
国際政治の陰謀論的な問いにせよ
私たちがいわゆる「真理の探究」「真実の探求」と呼んでいる行為は
実は自動的に「ジコタンキュー」なのだ。っと言うことが意識化されていない!
っということにおいて、
「自己探求」(いや、〝追求〟と言うべきか?)は必要なのだ。
あなたが「緑色」ならば
世界は「緑色」にしか見えない。
私たちの誰もが、自らのカラー(色シキ、識シキ、方程式シキ)という、
「環世界」から逃れることは出来ない。
その強烈な自覚のもとで、
わたしたちは初めて自己探求を
「ジコタンキュー」として・・・、
「フーリッシュ・シングス」として・・・、
---笑い飛ばすことが許される。
「これは自己探求だ」と思い込んで居たら「世界の探求」だったのだ。
そして
「世界の探求だ」と思い込んで居たら「自己探求」だったのだ。
しかしこれら
「自己と世界との無限ループした相互投影の環世界」を笑い飛ばす時、
真剣な、スピリチュアルな自己(=世界の)探求という、
おのれの馬鹿さ加減を笑い飛ばす時、
じゃあ、逆に「笑い飛ばせないもの」は何か残るだろうか????
・・・その時、
OSHOがいう「生とは深刻ではない」という言葉が迫って来るではないか?