We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2021年01月



Kは言う。「第五の質問、
 『あなたは誰ですか?』だって?
   ・・・何て馬鹿げた質問でしょう。」
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この質問に対して「わたしは何々です」と言葉で回答しても
それはレストランの前に掲げているメニューを眺めているようなものだ・・・。

いわゆるジコタンキューを「馬鹿げたこと」として
「青臭い奴らだ」とからかいのネタにする人達に、
わたしは「条件付き」で同意する。

「探求可能な何か?」とは
常に「自分から距離があるもの、事柄、対象に対してのみ」であり、
「自分自身」「いまここ」とは
マインドによって探求可能な対象ではない。だから、
「これらは馬鹿げたこと」なのだ。



「わたし自身」は探求できない・・・
それらは何か「馬鹿げたこと」の中に投影されて、部分的に映し出される。

それでも、依然スピリチュアルな?質問として
この禅問答は繰り返される必要がある。
それは社会に対して妄想しか投影できない
ニートの「青臭いエクスキューズ」としてではない。

スピリチュアルな問いにせよ
国際政治の陰謀論的な問いにせよ
私たちがいわゆる「真理の探究」「真実の探求」と呼んでいる行為は
実は自動的に「ジコタンキュー」なのだ。っと言うことが意識化されていない!
っということにおいて、
「自己探求」(いや、〝追求〟と言うべきか?)は必要なのだ。

あなたが「緑色」ならば
世界は「緑色」にしか見えない。
私たちの誰もが、自らのカラー(色シキ、識シキ、方程式シキ)という、
「環世界」から逃れることは出来ない。



その強烈な自覚のもとで、
わたしたちは初めて自己探求を
   「ジコタンキュー」として・・・、
    「フーリッシュ・シングス」として・・・、
         ---笑い飛ばすことが許される。

「これは自己探求だ」と思い込んで居たら「世界の探求」だったのだ。
そして
「世界の探求だ」と思い込んで居たら「自己探求」だったのだ。

しかしこれら
「自己と世界との無限ループした相互投影の環世界」を笑い飛ばす時、
真剣な、スピリチュアルな自己(=世界の)探求という、
おのれの馬鹿さ加減を笑い飛ばす時、
じゃあ、逆に「笑い飛ばせないもの」は何か残るだろうか????

・・・その時、
OSHOがいう「生とは深刻ではない」という言葉が迫って来るではないか?

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「不屈の精神で真実を追究し続ける・・・」
それが最高の価値だと思い込んでいた・・・。
.
・・・そんな「若気の至り」の時期が、
ありました! わたしにも(笑)
.
(  ̄- ̄)トオイメ
.
しかし何かひとつでも
「これが絶対に正しい」と、
ひとたび思い込んだ・・・その瞬間から
すでに「真実の追究」は腐敗し始める・・・
それは一種の〝宗教〟
一種の〝アヘン〟だからだ。
.
「真実の追究こそ永遠普遍の価値だ!」
そう宣言する、そのこと自体がすでに
「真実の追究から脱落したことになる・・・」
という
無限ループする矛盾・・・
.
そこに至ると
誰もが「不可知論」という
ブラックホールに飲み込まれていく。
.
「いつかはきっと
絶対の真理をつかみ取ってみせるぞ!」
.
しかし、
その野心、その気負いそのもの
目の前にある素朴な真実に対してでさえ
人を盲目にしてしまうものなのだ。

わたしはあらゆる美しい人の
言葉、文章、美しく重みがある態度を信じない。

「信じない」と決めてかかっている訳ではない。
「何もかも疑ってかかっている」という訳でも無い。

わたしだって美しいものに〝酔う〟事ぐらいはあるだろう。
でも、「永遠に酔えるもの」など
この世に何ひとつ存在しない。・・・と、
常にどこかで醒めているだけだ。

「働いたら負けかな?っと思う」のではない
「信じ込んだら負けかな?っと」常に油断しないことなのだ。

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バシャールは、
「ワクワクとは憧れのことでは無く“切実さ”のことだ」と言っている。

切実な欲求というものは誰にでも分かる。
種族を超えて理解しえる。

なぜならば、
どんな生き物にとっても自らの生命は最もかけがえのないものだからだ。

たとえば空腹や暑さ寒さなどの様な、「生命に切迫している」ものほど
それは誰にでも理解出来るニーズだ。

「私とは何か?」と問うて、
「いまここ」と答えた場合、
それは「時空間がゼロ(原点)」という意味であり、
それが「いのちだ」ということでもある。



日常茶飯の「他愛の無いこと」が
なぜ無価値で退屈な繰り返しだと感じるのか?と言えば、
そこには自分の生活、生命と
 「やや距離がある(やり直しが利く)」「逼迫していない」ことだと
   私たちが余裕を持って感じているからだ。

たとえば体温調節の為に衣類を脱いだり着たり、とかが
なぜ「他愛の無い日常茶飯」なのかと言えば、
「非常に断片的な(有効期限の短い)事柄」だからなのだが
もしそういう価値判断をするのなら、
そもそも自分の生活というモノ、それ自体が、
この世界から見れば「断片的な存在」に過ぎないが、
でも私たち自身にとっては、
日々刻々の日常の自分の生活こそが〝すべて〟だ。

ところがこの〝すべて〟こそが、
実際には日常の些末で些細な〝断片〟(=パーツ)の
寄せ集めに過ぎない。

本当は「全体」と「部分」ですら、「比較できない」のだ。
でもそれはなかなか意識し続けることが出来ず、
わたしたちはついついそのことを忘れ、
あるいは理解出来ずに「比較して」しまう・・・
・・・「全体こそが大きい」「部分は小さい」っと。

   〝見た目〟ではそれは明らかに正しい!!
   「全体こそが大き・・・」く、「部分は小さ・・・」い、
          ・・・・・・だなんて当然では無いか?

生活の営みの〝すべて〟が、断片に過ぎないとも言えるが、
本当は日常の一挙手一投足こそが、〝すべて〟なのだ!とも言える。

あらゆることが、
「部分で断片に過ぎない」とも言えるし
あらゆることが、
「すべてだ」とも言え、これは「視点(意識)の違い」に過ぎない。

全く同一のことが「部分」でもあり「全体」でもあり、
そこに一念三千論的なミラクルがある。

つまるところ、
すべては
「どこに立ち止まるか?」
「どこに視点を置くか?」にかかっている。

・・・〝そこ〟に、運命がかかっている。
たとえば死にかかった野良猫があなたの足を止めるかも知れない。
〝そこに、立ち止まった時〟
運命が、あなたを見つけたのだ、とも言える。

瞬間瞬間に生命がある・・・、
でも瞬間に生命を見いだした時、
そのときは同時に「それ以外の選択肢が考えられない」という
あなたの〝死〟も、また同時に、存在していることになる。

真の聡明さは、真の慈悲深さでもある。
あなたが聡明な人ならば、
きっとその慈悲深さ故に生と死の表裏一体性を理解しているだろう。

バシャールが言う「ワクワク」とは、探すべき何かでは無く、
日常で出喰わすものなのだ。

「なぜ人々も社会もエゴイスティックで愚かなのだろうか?」
「なぜ自分は肉体に縛られているのか?」
と嘆くなかれ・・・
それは問いかけの段階から間違っている。

なぜならこれらのすべての状況の持続を望んでいるのは
あなた自身なのだから・・・あなたは被害者ではなく、責任者だ。

もし今の世界をわたしが望んでいないのなら
わたしは今頃、全く別の世界に居たことだろうと思う。
わたしがこの世界を改善するのではなく、ね

日本に住んで反日している人達って居るでしょ?
この世界に住んで
「アイツが悪い」「コイツが悪い」って
年じゅう不満たれている人ってのはさ、
  自分で好き好んで
  この世界に居座っているって言う
    
・・・自覚が足りない訳だ(笑)

たしかに世界は不完全だろう。
ついつい自分の不幸の原因をそこに求めたくなる心境はよく判る。

でも私たちは本当に「完全な社会」を心底望んでいる?
「完全な世界:パーフェクト・ワールド」においては、
        時間は静止している。
        全てのストーリーは完結している。

その世界を神秘体験として味わったことがある人は何人もいるだろう。
でも私たちは本当にそこに留まり続けたかったのだろうか?

私たちがたとえ全知全能の神や救世主を探しているのだとしても
実際にそんなパーフェクトと出会ってしまうとしたら、
困るのは他ならぬ私たちなのだ(笑)

だから私たちは昨日も、今日も、そして明日も存続し続けている。
だからこの世界もまた、昨日、今日、明日と、存続し続けるのだ。



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