We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2020年12月

マンションの管理人をしている私は、
週明けの今朝、マンションの住民共用の傘立てでビニール傘を並べてみた。

「ご自由にお使い下さい」と表示している訳でもないが
 住民の皆さんは、このエントランスの傘立てから傘を利用していく。
もちろん、そうしてもらうつもりで準備してある傘なので
 持っていくのは構わないのだが、
 何故か?帰ってくる傘は少なく、
 傘立てから嵩はどんどん減っていく。

 そしてまた返却してくれる人も折りたたまずに
 濡れたまま傘立てに突っ込んで返してくる。

だから(覚悟していたとはいえ)管理人の私が手入れしなければ
この傘立てはどんどんエントロピーが増大していく・・・。

それで今朝思いついたアイディアが、
「お花を生ける様に綺麗に整えておいたらどうだろうか?」だった。

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上記の様に整列させてみてふと思ったのは、
  「美とは、『意識の存在』なのだ!」ということだ。

逆に無意識である時、そこには乱雑さがあるが故に
「ゴミはゴミを呼ぶ」訳である・・・。

もちろん、
本当は「ゴミ」という意思を持たぬ物体が、
他のゴミに招集を呼びかけているのでは無く、
乱雑さに対する人間の「無意識さ」「無頓着さ」「無責任さ」が
さらなる他の人の「無意識さ」「無頓着さ」「無責任さ」を
引き寄せているだけに過ぎない・・・。

しかしそこに「皆さんに気持ちよく傘を使ってもらおう」という
まごころを込めて整理するなら、
(・・・「誰もが」、ではないにしても)、傘を使おうと手を伸ばした何人かは
その「私の気遣い」に気が付いてくれるかも知れないのだ。

そしてもう少し共用の傘に対しても「心遣い」を返してくれるかも知れない。

だから「美の魅力」とは「(心遣いといった様な)意識の存在感」と同期している。
そこで「美しさ」とは女性的なたおやかさでもあり、可憐さでもある。
そこに命令的な押しつけがましさ、自己主張があってはいけないのだ。
「美の意識性」とは「沈黙のメッセージ」であり、
それに気が付いた不特定多数の人にもまた「内発的な気付き」を
自然に触発した時、はじめて、それが「美しい」のだと思う。

  蝶:バタフライが艶やかに羽ばたく様な
   英語の「ビューティー」と
   日本語の「美しい」とは全く違う。

わたしたち日本人はよく、
国際的な政治などの舞台において
「自己主張が足りない」と言われるが、
ある意味やむを得ないのかも知れない。

陰謀論の世界では、「日本人はバカだ」とよく言われる。
たしかに国際感覚、聖書の世界観において疎いところは多々あるのだろう。

     ・・・でもそれは本当に、単なる「愚かさ」なのだろうか???

OSHOは自らのエンライトメントを語った時、
「石の強さとは違う、花の強さ」も同時に語っていた。
私たち日本人が持つ強さとは、
まさしくこの「花の強さ」なのじゃないか?っとおもったのだ。

OSHO、自らのエンライトメントを語る

「人生は深刻ではない」
「深刻さとは一種の精神病だ」
  っとOSHOは常々言っていたが、
  最近「これって結構、重要じゃね?」っと思うことが多々ある。

自分自身が日々、
イライラしたり深刻な気持ちに囚われると、
「あっと!オレ捕まっちゃってるな!」っとハッとして我に返る。

芥川龍之介は入水自殺の直前
「漠然とした不安」とポツリ書き残している。

明確な、具体的な不安では無く、「漠然と」した不安の方がある意味怖い。
これといった理由も無く、
「自分は何かとんでもない間違いに気が付いていないのでは無いか?」
「自分の今までの人生において、とんでもない見落としがあるのではないか?」
  ・・・そんな焦燥感に囚われることが、私には多々ある。

・・・この「不安」はたしかに客観的に観れば当然だろうとも思う。

  きっと私にはまだまだ気が付いていない・・・
  「人生への勘違い」「誰かや何かへの誤解」がきっと山ほどあるだろう。
  それによって知らずに他人を傷つけたり、
  気が付かないところでとんでもない損失をしてきた可能性は常にある。

   その「愚かなりし我が人生」の〝危険:リスク〟は、
    常に、誰であっても、生きている以上は逃れられない。

「不注意」「見落とし」「未熟さ」によって
私たちは常に他人を傷つけ、
そして自分自身もまた「イタイ目」に会い続けてきた。
だから無意識的に湧いてくる「漠然とした不安」が
また同時に、
常に私たちの胸の奥を焼き焦がし続け、
常に精進と精神的な成長を要求していることを
私たちはその「痛み」によって肝に銘じ続けてきた・・・。

しかし同時にその反面、
わたしの人生では、
その始まり(出生)から常に「完全とはほど遠い」歩みであったことなど
ある意味では当然でもあるのだ。
私は全知全能の神として生まれたのではないのだから・・・。

 パーフェクトさを自分に要求するならば、
  即座に「漠然とした不安」の餌食になるであろう事は、
       誰にとってであれ明白な事実だと思う。

 パーフェクトの追求と、シリアスさ(真剣さ、深刻さ)とは
      まったく表裏一体なのだから・・・。
そしてこれが
 「死への恐怖」そして「生き続ける事への恐怖」として
 私たちを無意識のうちにペッチャンコに板挟みにしてしまうのだ。

「全知全能の神」という基準を持ち出して、
「本当の人生はラクダが針の穴を通るよりも難しい」
              とイエスは言ったが、
 この言葉が2千年間、
  世界中のクリスチャン達を一体どれ程まで
    不安感と罪悪感に駆り立て、苦悩させてきたのだろうか?

 この言葉が2千年間、
  一体どれ程まで、
   OSHOがいうところの「精神病」に
      人々を追い込んでいったのだろうか?

 ・・・それは想像するだけでも本当に恐ろしいことだ!!

いや、でも「想像する」までもない。
目を開けば、まさしくそれが今の世の中だからなのだから・・・

「人生とは深刻ではない」というOSHOのシンプルな言明は
 「死の恐怖」「生きる事への恐怖」という
   恐怖のサンドイッチの両側から同時に
   私たちを解き放ってくれる重大なヒントがあるのだと思う。

    「深刻さ:serious」とは何か?

その表面的な正当性と、深層の病理性に対して
ありったけの「真剣さ:serious」を注ぎ込んで問いかけることが出来たなら
    そこには必ず狂気の世界からの救済の出口が見つかるに違いない。








手足を切られ、大きな穴に放り込まれて事切れる直前の釈迦族の女達に
釈迦は説法する。

 「肉体の世界はこんなものなんだよ。
  もう生まれ変わってこなくてもいいんだ・・・」

究極の絶望の暗黒の中でしか真の希望は見いだせない。
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バシャールのような、
(地球人の来世に相当する)宇宙人は存在するのか?

この宇宙空間は存在するのか?
「時間」がもし実体のない概念に過ぎないのならば、では「空間」は・・・??

  「いつか?どこか?」は実在するのか???

宇宙人や宇宙は実在なのか?
過去世や来世、過去や未来は実在なのか?

・・・わたしはその物理的な存在を否定するつもりはない。
 ・・・きっとそれはあるのだろう。

でも、「ある」としても
「もうその体験をする必要は無い」という理解は全く別物だ。

わたしにもわたし固有の自分の過去や過去世がある、
・・・にしても
そして未来や来世がある、
・・・にしても、
じゃあ、それらの〝固有の〟体験が
 「もう充分だ」となったとき・・・、
 「もう充分に味わい尽くした」となったとき・・・

・・・それらの体験が物理的に
  「消えてなくなる」ワケではない
・・・にしても
   それらはもはやシリアスな意味を持たなくなる・・・。

その存在を否定するのでもない、退けるのでもない。
ただただ「意味が氷解する」のだ。

「いまここ」を味わい尽くした時
「いつかどこか」は存在するが、存在しなくなる。
         否定も肯定も、必要なくなる。


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