We are all own definition

OSHO(バグワン・シュリ・ラジニーシ)やBshar(バシャール)を中心に 日々感じたことの防備録です

2020年03月



ずっと私は「正しさ」という言葉に取り憑かれていた。

正邪、正誤、正負・・・
 「正」という文字はポジティブな意味であり、
  ネガティブな文字とが対比的に組み合わされている言葉が多い。
  それはさしずめ、キリスト教の「神と悪魔」の様だ。

だから私たちの脳内でも
「正」とか「真」という文字は「神」の如き存在感をもつ。
たとえば数学では解答において「正解」とは常にひとつだ。
そして「間違い」とは常に「正解以外の全て」のことだ。

 ・・・つまり「正誤」とは「一対多」の関係だ。
    でも本当にそうなのだろうか?

わたしが「正しさ」の呪縛から解き放たれたのは
ビデオ「ザ・シークレット」で引用されていた
ヘンリー・フォードの言葉、
「出来ると言っても、出来ないと言っても、両方正しい」
                    見た瞬間だった。

私達が「正しさ」について考えるのは
他人との見解の相違で議論する時などだ。
もし、二つ以上の見解がそこに存在しなければ、
わたしたちは「正しさ」を意識することさえ無く、
無人の荒野をただ黙って一直線に歩いて行くのみだろう。

意見の衝突が火花を散らす時とは、
必ず異なった見地があり、
異なった「正しさ」が存在するのだが、
ところが、
そんな場面において私達は得てして
 頑固な「一神教の信者」になってしまっている。

「見る」とは「対象に光を照射して、その反射を知覚する」ことだ。
A地点から光を当てれば、その反対側のBの面に「影」が出来、
B地点から光を当てれば、その反対側のAの面に「影」が出来る。
私達はその光が発生させた陰影、のことを
「闇」とか「裏」とか「邪悪」であるとかイメージする。

しかし如何なる、あらゆる対象物も
光の当て方次第で、
どちらから見るか?によって
「闇」とか「裏側」というのはコロコロ変わる、相対的なものだ。

 ひとつの光源が、
 その周囲に多くの影を生じさせる様に、
 ひとつの「正しさ」もまた、
 かならず多くの「間違い」を発生させる。
 だからそれはまるで「一対多」の関係に見える。

しかし実際には
光と影、正しさと間違いとは一対一の関係だ。
しかもそれはキッパリと白黒に別れてはいない。
無限のグラデーションのなかで混じり合っている。
それがこの世界の実像だ。

これは具象的な物体だけに限らず、
 言葉の上だけに存在する抽象概念でさえそうなのだ。
それゆえに
絶対性や無限性について言葉で表現することには大きな限界がある。

「正誤」が一対多の関係に見えるのは、
 常に客体に対して「距離を置いた観察」をした結果においてであり、
「当事者」「主体者」にとっては
 光と影、正しさと間違いとは常に一対一の関係だ。

私達が頑固な「一神教の信者」に陥っている時、
千と一つの悪魔が湧いて出て来るが、
それは丁度、
映画マトリックスの主人公ネオが、
おびただしい数のエージェント・スミスを生じさせた
のと同様だ。
日蓮聖人は、法華経の「正しさ」を燃えたぎる太陽の様に信じて
それによって自ら法難を招き寄せてきたが、
それが本当に釈迦が八正道で語った「正しさ」と同じなのだろうか?
私は甚だ疑問に思っている。

釈迦は決してイエスや日蓮の様な「炎の説法者」ではなかった。
四苦八苦から解脱する為に「正しく見なさい」「正しく念じなさい」・・・
それはあくまでもヴィパサナという内観法について語っている。

つまりそれは
「内面に向けた正しさの追求」であった。
そしてそれこそが、
創価学会やロスチャイルドや安倍政権を批判するよりも
 (一見、遠回りな様でも)
遙かに最速で最強な「世を正す」道でもあると思う。
外側に向いた正しさの追求こそ「外道(げどう)」だ。
それはカルマの振り子をむしろどんどん大規模にしてしまう。

その挙げ句の果てにあるのが
世界三大宗教が楽しみにしている世界最終戦争だ。

「自分達が崇める神こそが唯一無二の正しい神だ」
と主張する宗教とは、仏教的には一括りで
「それらは全部、外道」と言って終わりである。

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そんな外道同士の大戦争の果てに救世主が再臨するとしても、
それはそんな傲慢な外道達が全てこの世から消滅したの話だろう。

だから実に遠大な皮肉なのだが
すくなくともクリスチャンの様な
   救世主を待ち焦がれる信者達〝だけ〟は間違いなく
         救世主を見ることは決して無いのだ。

なぜなら法華経とは
「傲慢 (一神教) の輩」が去って行った (死に絶えた) ことを如来が見計らって
そこに (生き) 残った者達に初めて語り出される教えだからだ。

そう、
「一神教」の人達は「神の御使い」が救世主だと思っているが
実際に救世主とも言える降臨があるのなら、それは「如来」のことだ。

宗教の信者に限らず、
「外に」正義を
「外に」真理を
「外に」安心を求める「外道達」は、
決して内面に向かって「八正道」を歩むヒマが無いだろう(笑)

 世に言うスピリチュアルと言えば
 学研「ムー」の様な
「超古代文明」だの「超能力」だの「UFO」だのの話題だと
 一般的には思われているが、
  それらにせよ、思いっきり「外道」の世界だ。

八正道の「正しさ」とは、
「闇」や「悪魔」や「過ち」と相対した「正しさ」とは隔絶している。
何かに対する「勝利」さえをも色あせて見える様な圧倒的な瞬間・・・。
それは「本当の自分自身との出会い」であり
それを追求することが八正道の言う「正」のことだ。

それらはすべて「中心へのチューニング」であり、
八正道は8っつの枝分かれはしていても、テーマは一つ。
釈迦の悟った「中道(=無選択)」へ至る為の
               実践メソッドのことだ。

中道に至った全ての人には「六月に突然、白い雪が舞う」。
それは決して人々からの反感を「買って出る」様な「世直し」ではない。


今朝見た夢から得たヴィジョン・・・・

今起きていることは、

  キリスト教福音派の米国狂信者達が人工的に生みだした
    ウイルスやバッタの大群による終末預言の成就か?

それとも
  私たちひとりひとりの内なる仏陀が垂らした
  「蜘蛛の糸のWWW(ワールド・ワイド・ウエッブ)」による
             覚醒のパンデミックの方が早いか?

 というギリギリの「時間との闘い」なのかも知れない。

「キリスト教の狂気による終末論」とは
聖書の中に書かれている、
「原罪思想」「自己否定」「罪悪感」「性悪説」が根拠になっている。

それは虫歯に似ている。
どれぐらい蝕まれているかによって、
どれぐらい歯を削らなければならないかが決まるのだ。

キリスト教に限らず、ありとあらゆる宗教が私たちの「欲望」を指さし、
それを狂気だと断罪し、それが人間の罪深さの証拠だという。

一見、そのはなしは説得力がある。
しかし、人類を狂気に駆り立てたのは「私たちの本性」故ではない!
「食欲」「性欲」「睡眠欲」・・・私たちは自らの本性に従って生きていれば
決して無限に欲望を膨らませることなく、
日々を平和に暮らしていけるし、
その平和を楽しむことが出来る。

キリスト教の「原罪論」と「終末預言」そのものが
人類を狂気に駆り立ててきたのだ!

キリスト教文明そのものが、2000年間、「イエスの再臨」を待ち焦がれ
その為に様々な災難を人類にもたらし続けた。

・・・今起きていることは、その「ファイナル・ステージ」だ。

キリスト教徒達の2千年間、人間の罪深さを祈りながら
世界の終わりを待望し続けた。
その狂気の集大成こそが、
ウイルスのパンデミックであり、バッタの大量発生だ。

だから、もし?
この「二千年間の救世主を待望する狂気」が終わったならば
どれ程沢山発生している砂漠飛びバッタも、
あっというまに消えてしまうだろう。

人間自体があまりにもバッタの様に増え続けてきた。
それは何故かと言えば、人間は確かに「自らの欲望の奴隷」だったからだ。

それは
「愛のないバッタの様な繁殖」を人間にもたらしたのだ。
バシャールが指摘した様に、
「罪悪感、自己否定感とはもっとも愛と対立するもの」だからだ。

愛を知らずに生まれた人々は、
まるでバッタの様な即物的な感覚で生き
そして彼ら自身もバッタの様に子供を産んでいくのだ。

食物を食い荒らすバッタの大群とは、
「唯物主義、拝金主義と全体主義」つまり中国の国民性を象徴している。
そしてウイルスとは「宗教」の象徴だ。

これらの弊害をもっとも速攻で無力化できるのが、
「蜘蛛の糸」を通して伝わる仏の慈悲、覚醒のパンデミックだと思う。



アメリカ人の実に4分の1にも及ぶ福音派のクリスチャン達は
「空中携挙」を信じているが、彼らはカルトに過ぎず、
この仮想現実から抜け出した本当の悟りを得た人だけが
産みの苦しみが無いエデンの園へと戻り、
それが本当の携挙である・・・
  ・・・それがKoJi氏の言いたいことな様だ。

KoJi氏は「ヤーヴェを信じるものは」「聖書を信じるものは」
っと、その絶対権威を指さしつつ、実質的にはそれを「解説している」
KoJi氏自身を「信じる者は・・・」と言いたい様に私には見える。

KoJi氏に限らず、
信者という寄生虫の厄介なのは、
何を質問してもつまるところ教典を引用して
それをあたかも自分自身の答えであるかの様に言い張り続けることだ。
まずはじめに「教典は絶対だ」という大前提を共有しなければ
彼らとは水掛け論で終わる。

終末預言に出て来る「イナゴの大群」とは、昆虫のイナゴというより
むしろ、
こういった「教典に寄生して大量発生した信者達」なのではないだろうか?

わたしは〝結果としては〟
こういったイナゴの様な人間達と、
ちゃんと自立してモノを判断できる人達との
天国行きと地獄行きとの運命の分かれ道ならば、
    起こり得る可能性は否定しない。

しかし
それを自らが神を代理する裁判官の様に
人々に申し下して
いる時点で
もうそれがミニ・カルトのカルトたるゆえんなのだと思う。

〝選ぶ〟〝過去を信じ込む(依存する)〟
   と言う段階でその人はすでに地獄にいる
のだ。

なぜなら
「あれか?」「これか?」と言っている時点で
「今の自分ではダメだ」という、
自己否定感や罪悪感、欠落、欠乏感、未熟感の餌食になっているからだ。

  ・・・私自身がこの地獄に40歳過ぎまでいた経験者だから
     この凄まじい地獄の苦しみは熟知している。

何かを選び取ることとは、自動的に何かを切り捨てることになる。
自分自身が常に選択の連続の中に居続けると言うことは、
いつかは自分自身が何ものかによって「切り捨てられる」ことを暗示している。
これが聖書が人々に植え付けてきた罪悪感と選民思想の根本原理だ。

その有限的な発想とは必ず「始まり」があり「終わり(結論)」があり
そして「世の終わり」には個々人の選択に対する審判がある・・・、
            っと言うハナシに当然なってくる。

一見、
  聖書の「空中携挙」と似ている話に、
    芥川龍之介の「蜘蛛の糸」がある。

どちらも「天国への直行便」がテーマの話だけれど、
芥川龍之介が描いた「御仏が垂れた救済の糸」は、
聖書の選民思想とは全く違い、
「地獄に落ちた人達を選別しない慈悲」であり、
そして、蜘蛛の糸とは「全ての魂は繋がっている」ことの象徴でもある。

池で溺れかかっている子犬も、地獄で苦しむ人達も、
ただひたすら「助かりたい」という切実な欲という点では違いなど無い。
切実な欲求というものは命のあるもの同士には、
種の違いを超えて理屈抜きで理解出来る。
それは一本の蜘蛛の糸だけでの地獄全体だって
引っ張り上げることが出来たに違いない。

しかし、
他者を蹴落として蜘蛛の糸を独占し、
自分だけ助かりたいという欲望の上での計算が働くと、
    ・・・・蜘蛛の糸はすぐに切れてしまうのだ。

KoJi氏は選民思想が大好きな様だけれど、
これは全く芥川龍之介が描いた世界とは正反対な、俗悪な世界観だ。
にもかかわらずKoJi氏はイエスのことを「菩薩」などと呼んで
「終末思想」、「選民思想」と「仏の慈悲」とを混同している。

KoJi氏には、
「救済するべき対象者」を選別するドケチな発想に執着するよりも
「仏教とキリスト教との次元の違い」をちゃんと識別して欲しいものだと願う。

まあ、彼がどんな宗教も「統一したい」統一教会の信者ならば、
そんな見極めは到底できない「ミソもクソも一緒」なのだろうけれど、ね?・・・






「シリアスな場面というのに対して、
 『笑い』とは悪魔の様で、
  それは人々が緊張する様な場面に、
  必ず忍び込む余地があるんです・・・」

このビートたけしの言葉は、
山羊座ならではの「笑いの悪魔的な本質」を射貫いていると思う。

英語のデヴィルとは、
「神聖」を意味する「デヴァイン」や
「分割」を意味する「デヴィジョン」との類義語だ。

 デーモンとは「(神の)代理」という意味もある。

ロスチャイルドは、元々は「ローゼン・シールド」だったそうだが、
ロスト・チャイルド、つまり堕天使とも読める。
ハリウッドがあるアメリカのロサンゼルスもロスト・エンジェルと読める。

アイン・ソフ・アウル・・・
森羅万象のすべての本質は光であったとしたら
それは「白い闇」であろう。何も見えない、識別できない。

悪魔とはそこから分離し、「ジョーカー」という役割を果たすことで
「ひかりとは何か?」を私たちに見せてくれた。

もし、世界が「因果の法則」だけであったなら、
科学的な、数学的な、無味乾燥な法則だけで世界は展開し、
その完璧な始まりに対して、
神の預言だけが淡々と成就していき、
そして定められた通りの完璧な終わりだけが待ち受けているだろう。

だから欧米では「科学」が「新しい宗教」としてその役割を担ってきた。
そこには仏教が指摘する「因縁果報」ではなく冷たい「因果律」だけがある。

「縁:出会い」という触媒があり、
「報:結果の受け止め方」次第によって、
それがまた別の「原因」を生みだし
 世界の運命は大きく変わっていく・・・。
 つまり仏教は決して宿命論だけではない。
 如何なるシリアスな場面にも
 「笑い」が、わたしたちのストコーマ(盲点)を指摘してくれる。

 しかしまた悪魔とは「仏の手の平の上の孫悟空」の様でもある。
  仏の視座から見るなら私たち人間が思いつくのは
   「猿知恵」を超えたものではないのだろう。

 「全知全能の創造神」という宿命論よりは
 「悪魔的な猿」や「神との契約のウラを掻く魔法大全=タルムート」
  の方が上手(うわて)だが、そのさらに上位に「ほとけの英知」がある。

問題は「猿の王」として誕生した孫悟空が、そこに気が付くか?否か?だ。
ヨハネの黙示録の結論とは、
最後に「全てのユダヤ人が悔いてイエスを救世主と認める」とある。

ところがその預言の成就にクリスチャンのみならず、
ユダヤまでが待望するのはなぜか?

・・・かれらは確信しているのだろう!
  「これらの預言も、オレ達が自分で作文したからだよ!」っと。

・・・キリスト教の預言が全てユダヤの書いた作文、茶番劇であるならば
   かれらが世界最終戦争を待ち望んで「悪魔の種明かし」が来るのを
   待ちわびている理由が明快だろう。

・・・最後の最後に、
   イエスの再臨を待望する全世界のクリスチャンの絶望を見て
   その大どんでん返しの中で高笑いできるという悪魔的確信があるのだ。

だとすると結局は、
キリスト教の全体がユダヤが手の平の上で作り上げた茶番だったと言うことになる。

しかし、そのユダヤも叉、
   全宇宙を満たす悟性の「手の平で踊らされていただけ」だったとしたら?

「この宇宙はマトリックスに過ぎない」
「私たちはこのピラミッド世界から脱出したい!」



  その悲願は、彼等自身さえも想像を絶するカタチで成就するのかも知れない。

つまり、
    「このピラミッドからの脱出ゲームを作ったのは自分自身だった」
                  バイオセントリズムというオチだ。





「時間」であれ「空間」であれ、「間:あいだ」とは、
AとBとの間隔があることを意味する。

この「間隔」が、わたしたちの日常「感覚」でもある。
わたしたちはあらゆる森羅万象との「関係性」の中で生きている。

 そして
  「関係性こそがエゴに他ならない」
        By OSHO 「秘教の心理学」

 --なぜなら、あらゆる関係性の継続とは
    「期待」や「比較」を意味するからだ。

時空〝間〟の「間:あいだ」がとれた
「時:とき」や「空:くう」が、
「ナウ&ヒア=いまここ」であり、真実はそこにある。
  「欲」とは、まさに「いま」、まさに「ここ」にある。
     それは瞬間的な必要性で、決して破壊的では無い。

  この「欲=いまここ」に間隔がくっつくと「欲望」になる。
  つまり「望:のぞみ」とは、「いつかどこか」のことだ。

この「欲」と「望」との癒着が私たち自身を破滅させようとしている。

「この地球は人々の必要(=欲)を満たすのには充分に豊かだが
 人々の欲望を満たす為には地球が何個あっても足りないだろう・・・」
                        ガンジー

  ・・・人口削減計画の正誤を問うた時の解答がここにある。

すべての「教え」とは、この「間隔~感覚~欲望の制御」にある。
それゆえに世界中の全ての宗教はカルト的な狂気の元凶となってしまうのだ。
   そこでは「教え」の中身がどれ程素晴らしいものなのか?
   「預言」がどれほど明確に神の計画を伝えたものなのか?
              ・・・それは関係ない!
「人間は儚く、不完全だ・・・」
  だから
  「全知全能の神、完全無欠な真理を求めた」のか?

「人間は儚く、不完全だ・・・」
  にもかかわらず、なぜ
  「全知全能の神、完全無欠な真理を得られると期待した」のか?

この二つの問いかけの違いが
あらゆる「教え」や「求道」の根幹に関わる・・・
わたしたちは何故?いつかどこかに「完全なもの」を求めたのか・・・??
不完全のみが
成長の喜びを味わうことができるのに・・・



法華経ですら「教え」である以上は、
必ずカルトによって悪用されるのが運命だ。

 文章によって書き残された「教え」「教典」の内容とは
  当然、すべて〝過去のもの〟であり、
  過去や未来とは、まさしくエゴに基づいた妄想なのだ。

「ああしたらこうなる」といった法則集、
「神からの命令」「神との契約」・・・
  こういった〝お約束〟はすべてエゴが期待している偶像崇拝だ。

釈迦が悟ったときに、
自らの言葉を後世に「残すべきか?」「残さないか?」
・・・・その迷いの真意に私たちは「いまここ」で肉迫できる。

「欲」にはなにひとつ問題は無い。
それは明日のいくさをを控えて、
狭い茶室の中で敵味方を超えて共にすする「一杯のお茶」、
これが「無:サイレント」「ゼロの次元」・・・一合一会だ。

 そこに「別れの悲しみ」があってはいけないという事では無い。
ただ、「この悲しみは一体いつまで続くのだろうか?」という恐怖感が
不必要に痛みを長引かせ、拡張してしまうのだ。


18.Meditation   瞑想

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