ずっと私は「正しさ」という言葉に取り憑かれていた。
正邪、正誤、正負・・・
「正」という文字はポジティブな意味であり、
ネガティブな文字とが対比的に組み合わされている言葉が多い。
それはさしずめ、キリスト教の「神と悪魔」の様だ。
だから私たちの脳内でも
「正」とか「真」という文字は「神」の如き存在感をもつ。
たとえば数学では解答において「正解」とは常にひとつだ。
そして「間違い」とは常に「正解以外の全て」のことだ。
・・・つまり「正誤」とは「一対多」の関係だ。
でも本当にそうなのだろうか?
わたしが「正しさ」の呪縛から解き放たれたのは
ビデオ「ザ・シークレット」で引用されていた
ヘンリー・フォードの言葉、
「出来ると言っても、出来ないと言っても、両方正しい」を
見た瞬間だった。
私達が「正しさ」について考えるのは
他人との見解の相違で議論する時などだ。
もし、二つ以上の見解がそこに存在しなければ、
わたしたちは「正しさ」を意識することさえ無く、
無人の荒野をただ黙って一直線に歩いて行くのみだろう。
意見の衝突が火花を散らす時とは、
必ず異なった見地があり、
異なった「正しさ」が存在するのだが、
ところが、
そんな場面において私達は得てして
頑固な「一神教の信者」になってしまっている。
「見る」とは「対象に光を照射して、その反射を知覚する」ことだ。
A地点から光を当てれば、その反対側のBの面に「影」が出来、
B地点から光を当てれば、その反対側のAの面に「影」が出来る。
私達はその光が発生させた陰影、のことを
「闇」とか「裏」とか「邪悪」であるとかイメージする。
しかし如何なる、あらゆる対象物も
光の当て方次第で、
どちらから見るか?によって
「闇」とか「裏側」というのはコロコロ変わる、相対的なものだ。
ひとつの光源が、
その周囲に多くの影を生じさせる様に、
ひとつの「正しさ」もまた、
かならず多くの「間違い」を発生させる。
だからそれはまるで「一対多」の関係に見える。
しかし実際には
光と影、正しさと間違いとは一対一の関係だ。
しかもそれはキッパリと白黒に別れてはいない。
無限のグラデーションのなかで混じり合っている。
それがこの世界の実像だ。
これは具象的な物体だけに限らず、
言葉の上だけに存在する抽象概念でさえそうなのだ。
それゆえに
絶対性や無限性について言葉で表現することには大きな限界がある。
「正誤」が一対多の関係に見えるのは、
常に客体に対して「距離を置いた観察」をした結果においてであり、
「当事者」「主体者」にとっては
光と影、正しさと間違いとは常に一対一の関係だ。
私達が頑固な「一神教の信者」に陥っている時、
千と一つの悪魔が湧いて出て来るが、
それは丁度、
映画マトリックスの主人公ネオが、
おびただしい数のエージェント・スミスを生じさせたのと同様だ。
日蓮聖人は、法華経の「正しさ」を燃えたぎる太陽の様に信じて
それによって自ら法難を招き寄せてきたが、
それが本当に釈迦が八正道で語った「正しさ」と同じなのだろうか?
私は甚だ疑問に思っている。
釈迦は決してイエスや日蓮の様な「炎の説法者」ではなかった。
四苦八苦から解脱する為に「正しく見なさい」「正しく念じなさい」・・・
それはあくまでもヴィパサナという内観法について語っている。
つまりそれは
「内面に向けた正しさの追求」であった。
そしてそれこそが、
創価学会やロスチャイルドや安倍政権を批判するよりも
(一見、遠回りな様でも)
遙かに最速で最強な「世を正す」道でもあると思う。
外側に向いた正しさの追求こそ「外道(げどう)」だ。
それはカルマの振り子をむしろどんどん大規模にしてしまう。
その挙げ句の果てにあるのが
世界三大宗教が楽しみにしている世界最終戦争だ。
「自分達が崇める神こそが唯一無二の正しい神だ」
と主張する宗教とは、仏教的には一括りで
「それらは全部、外道」と言って終わりである。
そんな外道同士の大戦争の果てに救世主が再臨するとしても、
それはそんな傲慢な外道達が全てこの世から消滅した後の話だろう。
だから実に遠大な皮肉なのだが
すくなくともクリスチャンの様な
救世主を待ち焦がれる信者達〝だけ〟は間違いなく
救世主を見ることは決して無いのだ。
なぜなら法華経とは
「傲慢 (一神教) の輩」が去って行った (死に絶えた) ことを如来が見計らって
そこに (生き) 残った者達に初めて語り出される教えだからだ。
そう、
「一神教」の人達は「神の御使い」が救世主だと思っているが
実際に救世主とも言える降臨があるのなら、それは「如来」のことだ。
宗教の信者に限らず、
「外に」正義を
「外に」真理を
「外に」安心を求める「外道達」は、
決して内面に向かって「八正道」を歩むヒマが無いだろう(笑)
世に言うスピリチュアルと言えば
学研「ムー」の様な
「超古代文明」だの「超能力」だの「UFO」だのの話題だと
一般的には思われているが、
それらにせよ、思いっきり「外道」の世界だ。
八正道の「正しさ」とは、
「闇」や「悪魔」や「過ち」と相対した「正しさ」とは隔絶している。
何かに対する「勝利」さえをも色あせて見える様な圧倒的な瞬間・・・。
それは「本当の自分自身との出会い」であり
それを追求することが八正道の言う「正」のことだ。
それらはすべて「中心へのチューニング」であり、
八正道は8っつの枝分かれはしていても、テーマは一つ。
釈迦の悟った「中道(=無選択)」へ至る為の
実践メソッドのことだ。
中道に至った全ての人には「六月に突然、白い雪が舞う」。
それは決して人々からの反感を「買って出る」様な「世直し」ではない。